畿内を中心に古墳の出現した頃、東国の墓制は方形周溝墓の最盛期であった。多くの集落で階層分化が激しく、方形周溝墓を営む首長が続出した。谷地開発から河川流域の沖積地開発へと進んだ時期でもあった。
初期の古墳は鏡や碧玉製品を副葬し、竪穴式石室を内部にもった前方後円墳であった。この種の古墳は長野県弘法山古墳、森の将軍塚古墳などで、関東では認めることができない。これらの古墳と築造期を同じくするものに、千葉県神門四号墳や小田部古墳をあげることができ、前者は前方郡の極めて未発達な前方後円墳で、後者は円墳である。どちらの古墳からも東海地方弥生時代末期の土器を出土しており、木棺は土壙に直葬された。副葬品のガラス小玉が特徴的、高い墳丘に木棺が埋葬されたものでなければ、方形周溝墓のあり方と本質的に変らないものである。
京都府椿井大塚山古墳出土などと同笵鏡の分有関係にある神奈川県真土大塚古墳・神奈川県加瀬白山古墳・千葉県手古塚古墳は神門四号墳・小田部古墳につづく古墳と思われ、上野を除く東国での古墳の出現は、畿内古墳文化の影響を受けてこれまでの墓制が転化・発達した結果ではなかろうか。中部地方や上野では畿内の古墳そのものが導入され、竪穴式石室、大規模墳丘などが最初から現われている。これに対し、東国では盛行期を迎えた方形周溝墓の墓制の上に、その色彩を強く残しながら高塚墳墓を生み、まもなく畿内的な内容をもった古墳の築造が始まった。畿内的古墳の築造が開始されたとはいえ、すべての古墳が在地性を失なってしまったものではない。たとえば、千葉県北作一号墳は円墳(?)で、墳丘頂から多くの土器が出土し、木棺の周囲にだけ粘土が使われるという変則的なものであった。また、東国に濃密に分布し、東国古墳文化を特色づけている木炭槨は、加瀬白山古墳などの一部畿内的な古墳にも営まれており、在地性の強いなかで畿内的内容が採用されたことを示している。加瀬白山古墳出土遺物の量については、畿内との差が著しい。
このように、在地性の強い初期古墳にあって栃木県大桝塚古墳と群馬県天神山古墳は、畿内的性格を顕著にもっているものといえよう。前者は全長九五メートルの前方後方墳、後者は全長一二九メートルの前方後円墳で、両古墳とも後円(方)部に見事な粘土槨をもち、とりわけ後閑天神山古墳は鏡五、鉄刀五、鉄剣五、銅鏃三〇をはじめとする豊富な副葬品を出土し、畿内の古墳におとらない墳丘規模・粘土槨・副葬品を有している。すなわち、毛野地域における階層分化と首長層の権力強化によって地域支配を確立したのではなく、早くから交通の要地として畿内政権との強い結びつきをもち、その結果として大規模墳丘をもった古墳が営造できたものと考えられよう。
また、同笵鏡をもつ手古塚・真土大塚・加瀬白山古墳も畿内的色彩が強く、畿内政権と深い関係を有していたと解してよかろう。すなわち、東国の古墳は弥生時代以来の階層分化によって生れた首長層と、畿内政権と結びつくことによって地域支配力の強化できた首長らが築造を始めたものであった。そして、畿内・瀬戸内と同じく、東国でも最初に前方後円墳・前方後方墳が採用された。