四 古墳文化の展開

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 東国全体が畿内政権の組織に組み入れられると、要地には巨大な墳丘をもった古墳が、またこれまで古墳をみなかった地域にも小規模古墳がたくさん現われた。関東で最大の古墳は群馬県天神山古墳の二一〇メートルで、全国二七位、茨城県舟塚山古墳は関東第二位、全国四八位の規模をもっている。関東で一〇〇メートルを超える墳丘の古墳は大部分五世紀代の古墳で、茨城県の愛宕塚古墳・舟塚山古墳・鏡塚古墳、千葉県内裏塚古墳・姉崎大塚古墳・弁天山古墳、栃木県琵琶塚古墳・笹塚古墳などは、それぞれの地域における最大級の古墳である。埼玉県では埼玉古墳群の二子山古墳や丸墓山古墳が最大級の古墳で、六世紀に入ると考えられている。しかし、丸墓山古墳などは五世紀にさかのぼると考えてよいと思う。
 東国大規模古墳の埋葬施設は粘土槨、割竹形木棺の前後を押えた程度に粘土の用いられた粘土床、舟形石棺または内裏塚古墳では竪穴式石室、群馬県天神山古墳・お富士山古墳では長持形石棺が採用されている。小規模古墳の場合、木棺直葬で、粘土はわずかに用いられている。箱式石棺は古墳の大小を問わず一般に採用された埋葬施設で、五世紀後半以降に普及する。
 副葬品は五世紀前半と後半とでは大きな違いをみせている。前半期の副葬品は大量・多種類の滑石製模造品に代表されている。たとえば、多摩川流域の等々力大塚古墳の石製模造品は下駄・酒船・台・坏・盤・甑・斧・刀子など二四三個、滑石の勾玉・臼玉も出土しており、鏡塚古墳では鏨・鎌・刀子・鎌・紡錘車・〓・鋤・のみ・釧・勾玉などの石製模造品が副葬されていた。
 五世紀後半~六世紀初頭の古墳として東京都亀塚古墳や茨城県三昧塚古墳をあげられようが、前者は木炭槨、後者は箱式石棺を埋葬施設とし、副葬品に大陸からの舶載品が極めて特徴的に把えられている。亀塚古墳からは舶載の画像鏡や金銅製馬具・腰佩、三昧塚古墳からは馬形飾付金銅製冠・金銅垂飾付耳飾が出土している。これらは大陸風の副葬品であり、短甲の副葬が盛んで、馬具の副葬も始まるなど前代までの副葬品の傾向とは大きく異なっている。
 墳丘を飾った埴輪は大規模古墳のすべてに認められ、東国における初期古墳ではまだ埴輪樹立の風の確立がなかったが、この時期に確立をみたといってよいだろう。土器の埴輪への転用ではなく、本格的埴輪の樹立をみた古墳として群馬県朝子塚古墳をあげられよう。茨城県舟塚山古墳や鏡塚古墳はそれに続くものと思われ、一方では土器の転用による埴輪樹立の風が認められる。この時期の埴輪は円筒系埴輪が中心で、わずかに形象系埴輪の器財埴輪が加わっている。
 亀塚古墳・三昧塚古墳には、円筒系埴輪の列に人物埴輪が樹立されており、五世紀後半~六世紀初頭には東国の地域でも人物埴輪が出現している。
 五世紀代東国の古墳のなかで円墳の発達はとくに著しい。東国の円墳は全国的にみても最大級のものが多く、直径百メートル前後のものをあげてみると、埼玉県丸墓山古墳の百メートル、胄山古墳九七メートル、茨城県車塚古墳九五メートル、高山塚古墳八九メートルなどである。これらの古墳に比適する円墳は畿内に認められず、わずかに岡山県小盛山古墳が直径百メートルといわれているにすぎない。奈良県の場合、最大級の円墳は富雄丸山古墳の八六メートル、近内鑵子塚古墳の八五メートルである。直径七〇メートル以上の円墳一七基のうち、一〇基までが関東地方に所在している。七基の内訳は四基が畿内、二基は東海で広い意味では東国である。六〇メートル級の円墳でも東日本地域に分布するものが圧倒的に多い。
 古墳の九割以上はおそらく前方後円墳と円墳が占めており、円墳は七割~八割に達するであろう。にもかかわらず、全長百メートルの前方後円墳の後円部規模に比適する径七〇メートルを超える円墳の数は少ない。古墳のなかで最大規模の墳丘は前方後円墳、最小規模は円墳という傾向からすれば、前者の被葬者が政治的最高支配者(大王)、後者が地方小地域集団の支配者を意味し、大規模円墳の被葬者は地方小地域集団支配者層側に属し、最高支配者の地方政治組織構成者ではないことを象徴しているのではなかろうか。大墳丘を造れる以上、地域の有力豪族であることに変りないが、畿内政権との結びつき方に前方後円墳の被葬者とは異なるものがあり、たとえそれがある世代に限られたものであったにしても、地方政治組織の外に置かれたことは間違いなかろう。だからこそ、ある時点では畿内政権の地方組織構成者となった首長を埋葬した大前方後円墳と共に、大円墳は古墳群を形成しているのではないだろうか。
 東国においても畿内地方と同様、五世紀代には巨大前方後円墳が出現し、それは畿内政権と結びつき広い地域を支配した首長の存在を意味している。畿内政権との結合強化は地方政治への支配力を高め、「国造」などとして地方政権を確立せしめたと思われる。彼ら有力地方首長のなかには畿内政権に上番し、舶載品や大陸風の文物を入手し、権威を高めた者も現われた。