五 箱式石棺と横穴式石室

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 墳丘規模百メートルに達する大前方後円墳は、六世紀に下っても東国各地で築造され、埼玉古墳群の大規模古墳はほとんど六世紀代の所産と考えられており。また埼玉県真願寺古墳、千葉県権現塚古墳、群馬県観音塚古墳などはいずれも横穴式石室を埋葬施設とする百メートルをこえる前方後円墳である。これらの大前方後円墳では副葬品も顕著で、地方政権継承者の墳墓であったと理解される。
 横穴式石室の東国での採用は、従来六世紀半のことと考えられてきたが、最近は六世紀初頭にまでさかのぼると指摘されている。前方後円墳で全長九五メートルの群馬県前二子塚古墳や全長七八メートルの群馬県簗瀬二子塚古墳の横穴式石室は、入口部通路(羨道)より両側とも広くなる両袖型の石室で、乱石積である。そして、石室壁面は一様にベンガラが塗布されて真赤であり、北部九州や畿内地方の初期横穴式石室と同じ傾向を示している。この両古墳の石室は出土遺物の様相から六世紀初頭の所産と理解して大過なかろう。栃木県天王塚古墳はこれに続く古墳と思われ、栃木県では最古の横穴式石室といえよう。
 東国で横穴式石室が採用され始めた六世紀前半期は、横穴式石室が埋葬施設の主流とはならず、木棺直葬や自然石積の竪穴式石室の古墳が多く、六世紀半をすぎて横穴式石室は急速に普及し、東国一円で採用される。
 六世紀半~七世紀の埋葬施設を代表する横穴式石室と並び、東国の一角、茨城・千葉の東関東地方には、粘土槨・粘土床・木炭槨に代って筑波石と俗称されている筑波山麓産の緑泥片岩製の箱式石棺が採用されている。茨城県三昧塚古墳・舟塚古墳の箱式石棺は最古の石棺で、前代の長持形石棺の系譜に属するものである。多摩川下流域の等々力大塚や木炭槨を主体としていた亀塚古墳発見の箱式石棺などは、前記二古墳の石棺と、石材・系譜こそ違え、初期のものと認められる。
 三昧塚古墳・舟塚古墳に始まる箱式石棺の採用は、霞ケ浦・北浦・利根川沿岸地域を中心に普及し、茨城県富士見塚古墳・小田古墳・堂目木一号墳の分布域が示しているように、六世紀半には筑波山麓から霞ケ浦・北浦沿岸に営まれ、さらに後半期に入ると九十九里海岸・東京湾岸にまで達している。六世紀半頃までの箱式石棺の被葬者は一人であったが、この頃から合葬が始まり、六世紀末~七世紀には三人~五人の合葬(追葬)が一般的となり、横穴式石室におとらない追葬のあり方を示している。そのため、追葬が行ないやすいように、石棺は墳頂から裾部に降りた。死者が出るたびに土砂を除き、石棺蓋を開けて先の白骨化した被葬者を棺のすみの方に整理し、新しい遺骸を安置した。この種の古墳がいわゆる「変則的古墳」で、霞ケ浦沿岸古墳時代人による「変則的古墳」の発明は、被葬者を飛躍的に増大させた。
 東関東地域における横穴式石室の出現は六世紀半で、横穴式石室の影響を受けて「変則的古墳」が誕生し始める一方では、横穴式石室を埋葬施設とする古墳も増加していった。七世紀も初頭をすぎると、横穴式石室のなかに筑波石製の箱式石棺をもつ古墳も造られるようになる。多摩川下流域の神奈川県第六天古墳や千葉県上総金鈴塚古墳などは、この種の古墳といえよう。
 毛野とその周辺地域では横穴式石室の普及は著しく、六世紀半にはほとんどの古墳に横穴式石室が採用され、内部に家形石棺を安置することもあった。東関東でみられたような箱式石棺は発達せず、豊富な石材で見事な横穴式石室を構築していった。この地域に巨石墳が出現し、東関東には認められないのも、こうした事情を反映しているものと思われる。