六 埴輪の盛行

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 既述のように東国における最初の埴輪は、群馬県朝子塚古墳に認められる。朝子塚古墳は四世紀後半期の所産と思われるので、東国にもかなり早い時期に埴輪が現われたことになる。この時期の古墳の多くは土器の転用による埴輪樹立が行なわれており、古墳の伝播と共に埴輪樹立の風が入ってきたことを意味している。在地性の強い古墳はなお埴輪樹立の風以前の土器による祭祀を墳頂で行なっていた。
 五世紀代の大規模古墳では、円筒系埴輪が二段、三段にめぐって樹立され、一部の小規模古墳でも埴輪を採用しはじめた。埴輪の基本である円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪が墳丘中段や外周の土堤に並び、前方後円墳の後円部頂には群馬県赤堀茶臼山古墳のように家形埴輪が整然と置かれることもあった。円筒系埴輪列の間には器財埴輪も加わるが、東国でのその実態は明瞭ではない。畿内ではこの頃から人物・馬形埴輪などが埴輪列に加わり、これまで円筒系と器財埴輪の列であったものが、にわかににぎやかになった。東国での人物・馬形埴輪の出現は五世紀末頃と推定され、なかでも毛野地方の古墳に最初に採用されたと思われる。
 六世紀になれば三昧塚古墳や多摩川下流域の亀塚古墳の埴輪が示しているように、人物・馬形埴輪は関東一円の古墳に現われ、急速に普及して、六世紀半~七世紀初頭の埴輪全盛期を迎えるのである。埴輪は畿内を中心として生れ、発展してきたものではあったが、東国ほど埴輪の隆盛をみた地域はない。人物埴輪についてのみ言えば、今日知られている畿内の全部を合せても、埴輪列を構成したわずか一基の東国古墳出土の数量より少なく、その姿態表現も東国の方がはるかに多様で、豊かである。すなわち、東国の六世紀半~七世紀初こそ、埴輪の世紀と呼ぶにふさわしいといえよう。
 東国の形象系埴輪の種類は豊富である。早くから現われた器財・家形埴輪に加え、水鳥・鶏形埴輪の鳥、馬・猪・鹿・犬・牛・猿形埴輪などの動物、魚、人物があり、人物埴輪の場合は、武器・武具をつけた男子、冠をかぶり大刀をはいた男子、鎌を腰にはさんだ男子、大刀をはきひげをはやした男子、裸の男子、馬に乗る男子など当時の人々の生活状況や服飾を知ることのできる極めて具体的で、多様な表現がとられている。女子埴輪は男子埴輪以上に多種多様で、細部に亘って造形され、そのため造形された埴輪の階層を推定できるものさえ認められる。
 群馬県の埴輪で初期の人物埴輪は、作りや様式上畿内の初期のものに類似し、茨城・千葉の埴輪は群馬のものに起源をもつと考えられる。たとえば、畿内や群馬の人物埴輪の目はすっきりした木葉形を呈しているが、茨城・千葉の目は木葉形がくづれて変形したものや粗雑な形状をしている。また、茨城を中心として栃木・群馬の地域には、木葉形を中央で横に割った半円形の目もあり、これは明らかに木葉形から派生してきたものといえる。
 これらの人物をはじめとする形象埴輪は、墳丘中段に列や隊を組んで発見される。馬子を先頭にして馬が並び、その後に男子や女子が続く埴輪列の事例があり、最近の大阪での埴輪列復元例では、男子が猪を追う恰好に配置されていたという。墳丘中段の埴輪列の場合、墳丘を比較的よく望見できる側に人物埴輪を並べ、それ以外の部分には円筒系埴輪をたてている。人物などの形象埴輪が並ぶ側は、横穴式石室の開口部、墳丘の南や東とは限らず、谷側であったり、平坦な地形側であったり、横穴式石室の開口部側であったりする。それらの側はいずれも村人らの望見できる部分で、その意味では古墳の正面である。このように墳丘中段の埴輪列は外部の人々を極めて強く意識した樹立の仕方である。このことは隊を組む場合でも同様といえようが、埴輪隊が墳丘頂における形象埴輪列から発達して墳丘中段や土堤に形象埴輪をかためて並べたものであるだけに、外部を埴輪列ほどは意識していないようだ。また、隊は円筒埴輪で長方形の区画をつくり、そのなかに人物・動物を何列かに配置しており、外部から全体を望むことは難しい。
 埴輪列における形象埴輪は、行進形ではなく、横に手をつないで整列した恰好に墳丘を囲繞した。つまり、人物埴輪はすべて墳丘の外を見ており、外部の人々とは相対することになる。このことは埴輪の造形上にも現われ、本来表と裏のないはずの家形埴輪は、外部に面しない、裏側に当る部分の作り・文様が粗雑で簡略にされてしまっている。人物埴輪でも裏側を略して造っているものが多い。埴輪列を構成した形象埴輪は、動物・鳥を除き表裏がはっきりしている。
 埴輪列での動物埴輪の並び方は行進形である。とくに馬形埴輪は明瞭で、馬体の側面が見えるように並び、列のなかでは馬のみが列の進行方向を示し、先頭の形象埴輪は何であるか明らかにしている。しかし、馬は左右どちらの方向にでも、その時の都合で決定されるため、造形上の表裏は認められない。
 関東・東北地方の人物埴輪は、よく見ると男女を問わず、その顔面が赤く色どられている。かなりよく赤色の残っているものもあれば、剥落してどのような形に色どられたのか分らないものもある。顔面赤彩色の人物埴輪は多く、最近では人物埴輪はすべて顔面赤彩色が施されたのではないかとさえ考えられるようになってきた。赤彩色は一般に頬部に施され、左右相称である。半円形のもの、長楕円形のもの、三角形のもの、縦帯形のもの、横帯形のものなどを基本形とし、塗る範囲によって若干の違いを見せている。額とあごには基本形と組みあわせた彩色が施される。男女の彩色形の違いはほとんど見られない。
 これらの赤彩色形と出土地の関係を統計にとってみると、一定の分布地域をもっていることが分る。たとえば、縦帯形のものは群馬県出土の埴輪に特徴的に表われており、円・楕円形は太平洋沿岸地域に広く分布している。人物埴輪は作りや様式、さらに赤彩色などを総合して観察してみると、どの地域出土の埴輪であるかほぼ見当がつく。
 以上のように埴輪は東国で全盛を迎えたがその理由を明瞭にすることは難しい。ただ、畿内の埴輪樹立の風が葬制の一環として東国に定着し、東国古代人の気風や風土によく合ったためということはいえよう。そして、東国に特有な人物埴輪列は葬列を、隊は葬儀の様子を表現したといわれ、顔面の赤彩色もまた、その時に行なわれたと思われる。