七 鈴鏡とその分布

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 「埴輪の世紀」ともいえる六世紀半~七世紀初の東国で、埴輪に比適する東国特有の遺物といえば、鈴鏡をあげることができる。鈴鏡は鏡の周縁に四個、五個、六個、七個、八個、十個の銅鈴を着けたもので、六世紀半の所産である。森本六彌氏はかつて五八面の鈴鏡を収集し、福島県から福岡県に亘る広い地域に分布するものではあるが、畿内に六面、瀬戸内・九州に六面の計一二面以外は、三重・滋賀県以東の東日本に分布し、なかでも群馬県の一〇面、長野県の九面、栃木県の七面は群を抜くと述べ、その後東京・埼玉の武蔵国地域で七面に増え、千葉の二面が加わり、東国に濃い分布を示していることが明らかにされてきた。奈良県の五面は武蔵につぎ、鈴鏡のみの分布からは東国と畿内政権との結びつきの強さが指摘できよう。また、多摩川下流域には武蔵七面のうち三面の鈴鏡があり、そのためこの地域と毛野との政治的結合を説く考えもあり、群馬県は鈴鏡の濃厚な分域であるところから、鋳造もこの地で行なわれたといわれている。
 鈴鏡は現物の他、人物埴輪の腰に着装されても発見されている。群馬県赤堀村と大泉町発見の女子埴輪は、ともに五鈴鏡をつけており、埼玉県埼玉古墳群稲荷山古墳の祭壇状遺構からも鈴鏡をつけた女子埴輪が発見されている。これらの女子埴輪は巫女を表現したものと一般に理解され、鈴鏡は東国女子特有の持物といえる。
 鈴鏡の鈴は五個、六個を着ける事例が最も多く、八個、十個は例外的で、埼玉県秩父市から十鈴鏡、群馬県から八鈴鏡が発見されているなど、せいぜい一~二面である。鈴鏡は鏡径が大きいほど多くの鈴をつけているので、鈴数に特別の意味があったとは考えられない。
 東国地域内でみる鈴鏡は、神奈川県には一面も発見されず、茨城県では栃木県境所在の上野古墳から六鈴鏡が発見されているだけで、まず太平洋沿岸には濃密に分布しないということがいえよう。すなわち、鈴鏡は毛野を中心とした内陸部の遺物で、多摩川下流域の三面は例外的である。そして、毛野勢力の及ぶ範囲に鈴鏡が分布していったとすれば、常陸・下総・相模の太平洋沿岸は毛野勢力とは対立する勢力を想定できることになる。しかし、それは勢力圏と考えるより、むしろ文化圏の違いと把え、そこに勢力関係を見た方が正しいのではないかと思う。前述の埴輪の造形や顔面の赤彩色、石室・石棺の分布などからも、そのことは傍証できよう。