十 東国古墳の終焉

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 畿内政権による古墳営造を含む葬制の規制実施を主張する古墳学者は多く、なかでも小野山節氏は古墳時代に四回の規制があったと述べている。最後の規制は七世紀半の大化の薄葬令で、第三回目は六世紀末という。六世紀末の規制のときに、埼玉県の横穴墓は普及し、三味線胴張りの横穴式石室も生れた。畿内政権による葬制の規制がこれほど都合よく墓制の転換をうながすものかどうか、実証することは難しい。このような古墳内容の変化や多様性の出現を葬制の規制の結果として説明すれば、これほど理解しやすいことはない。古墳の実態から帰納された規制は、あくまで仮説で、将来とも実証することはできない。
 古墳は首長権の象徴として生れ、それが首長を埋葬する施設であったが故に、墳墓の意味が強調されて横穴式石室が採用・普及し、そのため被葬者層が拡大されたところに古墳文化を衰えさせた要因を求めることはできないだろうか。だからこそ、初期寺院は墳丘に代る権威の象徴として各地の有力氏族が造立したのではないか。
 七世紀初頭以降、東国の古墳は前方後円墳に代って埴輪をもたない方墳が盛んに造られるようになり、あれほど隆盛をみた埴輪樹立の風も消滅への歩みを早めた。横穴式石室は地山に掘り込められた土壙に構築され、墳丘を取り除いても石室を露出させることは難しくなった。石室の床と周溝底との比高は等しくなり、周溝に連なる墓道がついた。
 千葉県竜角寺古墳群の岩屋古墳は全国第二位の墳丘規模をもつ方墳であるが、附近には同時期の方墳がたくさん認められる。羨道が短い横穴式石室で、玄室は正方形か長方形の平面形で、切石を用いている。石室の天井は中で人が立てるほど高い。また、下総地域ではしばしば墳丘を失った方形の周溝とその南・東辺に開口する凝灰岩切石の横穴式石室が発見される。それらは岩屋古墳とその一連の石室に比べれば規模が小さく、石棺ほどの大きさで、七世紀末~八世紀初頭に追葬を終了した最末期の古墳と思われる。
 最末期と推定される古墳は、凝灰岩・砂岩切石積、河原石乱石積などの横穴式石室、河原石乱石積の竪穴式石室的な石室・石棺、板石を組み合せた箱式石棺などを埋葬施設としており、地域による違いが認められる。