一 古墳時代初期の昭島

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 昭島市域に弥生時代遺跡の存在は今日もなお確認されていない。このことは昭島の弥生文化ですでにふれたところであるが、水稲農耕を主とした生産形態の段階では、昭島市域はまだ人々の住める状況にはなかったといえよう。四世紀に入っても昭島に住みつく人はなく、繩文時代にあれほど多くの遺跡を残すほど住みやすかった昭島も、生産社会では人々がかなり高度の生産技術をもつまで住めなかったのである。
 多摩川流域の四世紀には、東京で最大級の前方後円墳が相ついで築造されるほどの強力な地域首長が出現しており、その支配は昭島にまで及んでいたかどうか。四世紀末頃になると、昭島の一部に古墳時代人の進出を認めることができる。昭島市教育委員会市史編さん事務局が、広福寺台遺跡(福島町)から昭和五一年九月、一二月、昭和五二年二月に亘って採集した土器片のなかに、まぎれもなく五領式土器と比定されるものが数片含まれている。それらの破片は大形の二重口縁になると思われる壺の底部、直立する口縁のつく小形壺の口縁部、高坏または器台の脚部裾の破片などであり、二重口縁壺は巻き上げ手法の痕跡をよく残し、外面にはヘラケズリが施され、胎土に砂粒を含み、赤色粒も認められる。小形壺口縁は内外面ともよくヘラミガキが行なわれ、口辺外面端は削られ、内側はわずかにふくらむ。このような特徴は五領式土器に当り、これらの土器は古墳時代昭島における最初のものである。
 広福寺台遺跡は昭和五二年に墓地拡張にともなって一部発掘されているが、古墳時代の遺構は発見されず、五領式土器の時代、すなわち古墳時代初期の状況は分っていない。しかし、多摩川氾濫原に突出する段丘の一部、広福寺台に古墳時代の人々が進出してきていたことは明らかである。昭島市域とその周辺地域に初期古墳が、市街化のすすんだ今日になっても発見されていない。このことは広福寺台古墳時代人は古墳を築造しなかったのではないか。古墳を持たない広福寺台集落の首長は、この頃盛行した方形周溝墓を営んだのではないか。すなわち、東国初期古墳文化に顕著な、在地性の強い文化をもっていた人々といえるのではないだろうか。将来、広福寺台遺跡あるいはその周辺で方形周溝墓が発見されるであろうと想像される。
 古墳時代最初の昭島人は、広福寺台遺跡の一部に小さな集落を営んだ。そこは繩文時代では極めて住みよい場所であったが、古墳時代になると陸稲などの畑地作物の普及と栽培技術が進んだため、居住を可能にした。段丘下には水田も営んだことであろう。ここに彼らはどの位住んでいたか明らかではないが、やがてよりよい耕地を求めて昭島市域外へ移動していった。