六世紀に入ると昭島市域に住む古墳時代人が現われた。それが山ノ神遺跡人で、鬼高Ⅰ式と呼ばれる形式の土師器をもっていた。山ノ神遺跡は隣町の福生市と隣接する昭島市の西端に位置し、拝島段丘上に営まれた。この遺跡は住宅団地造成にともない和田哲氏が昭和四一年に発掘調査を実施し、住居址三基を明らかにした。調査後、竪穴と推定される黒色土の落ち込みが和田哲氏によって確認されており、住居址は四基知られたことになる。住居址は二〇~三〇メートルの間隔で営まれていた。
山ノ神遺跡の古墳時代の集落
山ノ神遺跡の第一号住居址は一辺七×六メートルの大きさで、カマドが北東壁の中央よりやや西寄りに設けられている。柱材と思われる木炭と床全面に灰が認められ、火災にあったものと推測された。柱穴は確認できず、この点は他の住居址も同様である。出土遺物に甕・甑(こしき)・坏があり、甕は口縁部が強く外反、胴部上半が長のびするうちにも下半は球形を呈し、最大径が胴下部にくるなどの特徴をもち、また甑は復合口縁、胴下半部から丸みを帯び砲弾形になるなど、いずれも鬼高Ⅰ式の特徴をそなえたものである。
山ノ神遺跡第1号住居址
二号住居址は六メートルの方形で、カマドは北東壁の中央に造られた。カマドの焚口部に二個の河原石を立ており、煮たきするとき甕を支えるための土製支脚がカマド内部から発見されている。遺物には甕・甑・坏があり、変ったものとして蝋石製の扁平な玉が二個出土している。これは装飾品ではなく祭祀用と考えられている。
山ノ神遺跡第2号住居址
山ノ神遺跡第2号住居址出土遺物
三号住居址は最もよく残っていた住居址で、一辺六・六メートルの方形を呈している。カマドは北壁の中央に位置し、焚口を補強するための河原石二個が立てられ、図によれば壁を切って造られている。このカマドの構造からすると比較的発達したものと把えることができ、鬼高Ⅰ式の段階ですべての住居址にカマドが設けられていたことは、すすんだ人々の集落といえようか。三号住居址の遺物に甕・甑・坏などの土器がある。
山ノ神遺跡第3号住居址のカマド
山ノ神遺跡は六世紀に昭島市域へ移住してきた古墳時代人によって短期間のうちに形成されたもので、遺跡規模は小さい。和田哲氏は営まれた住居の数を一〇基以内と推定しており、生活していた人々は二〇人~三〇人ではなかったかと推定される。これは当時の一家族を意味したのではないか。
土師器の和泉式から鬼高Ⅰ式の時期(五世紀後半~六世紀前半)にはカマドが現われ始め、その普及は鬼高Ⅱ式の時期といわれ、六世紀後半期と推定される。山ノ神遺跡のカマドは煙道が未発達であるが、焚口補強に両袖部へ河原石を用いる手法は珍らしく、支脚も設けられていて、鬼高Ⅰ式のカマドとしては発達しているといえよう。また、甑もすべての住居址から発見され、米飯食の普及をよく物語っている。米は以前は甕に入れて煮たものであった。それがカマドの出現によって甑でむす料理法がとられるようになった。山ノ神遺跡附近の多摩川氾濫原は度々洪水にみまわれたと思われ、水稲耕作には不向で、山ノ神遺跡人の食した米は陸稲であったろう。もちろん米以外の畑地栽培穀類も想定される。
山ノ神遺跡人は古墳を築造しなかった。山ノ神遺跡営住期は多摩川下流域に横穴墓が採用され始めた頃と思われる。山ノ神遺跡人はまだこの新しい墓制を知らず、彼らがもし古墳を営んだとすれば河原石を用いた石槨あるいは竪穴式石室様のものではなかったか。しかし、山ノ神遺跡は古墳を営む階層に属していなかったことは云うまでもなかろう。
山ノ神遺跡人もまた、広福寺台に集落を営んだ最初の古墳時代人と同じく昭島市域外へ移住していった。