浄土古墳は昭島市田中町浄土にあり、昭島市のほぼ中央、多摩川を眼下に望む拝島段丘上に営まれたものである。浄土には、「浄土寺」という寺院の営まれたことが記録されており、この地域に企業の建物を建てる計画が出てきたため、和田哲氏が寺址確認調査を実施し、浄土古墳はそれによって発見された。浄土古墳の墳丘はすでになく、墳形や規模は古墳保存処置が構じられて未調査に終った。石室は河原石乱石積の横穴式石室で、奥壁にのみ凝灰岩の一枚石を利用している。入口部の通路(羨道)は河原石による閉塞が行なわれ、未発掘のために詳細は不明である。石室に袖はなく、また入口部(閉塞部)が短かく、あたかも竪穴式石室の如くである。床面に石敷きはなく、側壁の乱石積は五段、残存のよいところで六段認められる。
石室の奥壁は両側壁高より一段高く、それから推量して現存側壁に加え、河原石は三~四段持ち送り状に乱石積され、河原石の天井石がのったものと思われる。石室天井と上部の壁は墳丘を失なうときに除かれたものであろう。石室内は人がしゃがんで行動するには十分な高さが保たれていたものと思われる。
浄土古墳の横穴式石室(入口部から奥)
浄土古墳の出土遺物は金環とよばれる金銅製の環状耳飾一対である。この種の耳飾は古墳時代後期に広く用いられたもので、これのみで古墳の時期を決定することは難しいが、浄土古墳は経塚下古墳の営造時期よりはさかのぼるのではないかと思われる。
浄土の地域は平坦で、栗林や宅地となっている。調査者の和田哲氏は浄土古墳の他に複数の古墳が営造されていたであろうことを想定している。この時期の古墳の実態からすれば、古墳は群を構成するのが一般で、したがって、浄土古墳の場合も一基のみということはないであろう。古墳はせいぜい三~四基ではなかったかと推定される。複数基の浄土古墳、つまり浄土古墳群は多摩川に向って開口する横穴式石室をもつ小規模古墳からなり、拝島段丘に集落を営む人々の墳墓であった。浄土古墳に埋葬の確認された遺骸は、金環一対が示すようにわずか一体である。浄土古墳は激しい破壊を受け、遺物の散逸はまぬがれず、遺骸・副葬品とも確認以上のものがあったとみてよいであろう。被葬者は三~四人を数え、浄土古墳群全体で一〇数人ではなかったか。浄土古墳群の被葬者層はこれまで古墳に埋葬されたことのない人々で、昭島市域に居住して後、はじめて古墳を築造したと思われる。彼らは多摩川左岸流域に支配権を確立した首長のもとにあり、一族の指導者であった。