四 経塚下古墳と昭島古墳の終焉

296 ~ 299 / 1551ページ
 浄土古墳群が形成されて死者が出るたびに追葬されている頃、昭島市域にいくつか墓域が営まれた。経塚下古墳や広福寺台古墳は七世紀後半に造られた。

経塚下古墳

 経塚下古墳は和田哲氏らの平安時代の経塚下遺跡調査によって昭和五一年七月~八月に発見された。古墳には墳丘がなく、河原石乱石積の石室である。その内法長は二・一メートルしかなく、あるいは乱石積石棺と呼ぶべきかも知れない。
 経塚下古墳の出土遺物に五角形の鉄鏃五本、刀子一本があり、武器のみの副葬であった。抉りのない五角形の鉄鏃は七世紀後半初の所産といわれ、経塚下古墳の営造期を示す唯一の資料である。

経塚下古墳石室内出土遺物(鉄鏃・刀子・釘)

 乱石積の竪穴式石室(石棺)は前後に一枚石の河原石を置き、側壁は現存で河原石二段~三段積まれている。現存側壁の高さは前後壁高に達していない。このことは側壁がさらに二段~三段積み上げられていたことを意味し、天井には横架できる長い河原石数枚が利用されたと思われる。床面には河原石が敷きつめられていた。
 広福寺台古墳は学術調査によったものではないので詳細は不明である。発見者の小川君一氏の話によれば、ゴボウの収穫中地下一・二~一・三メートルの位置に河原石を敷いた穴四個が発見された。穴の一つに大石の置かれたものがあり、その大石の上に直刀一口と素焼の茶〓二~三個があった。直刀は今日も広福寺に保管されているが、茶〓の方はその時捨ててしまったという。以上の発見地点は多摩川低地に突出する広福寺台のほぼ中央で、附近には繩文式土器、土師器、須恵器が散乱している。小川君一氏の談話では古墳という決め手には欠けよう。しかし、経塚下古墳と比較したとき、河原石積の小規模石室を想定できよう。おそらく墳丘はつくらず、石室のみであったと思われる。
 河原石乱石積の小規模石室(石棺)は被葬者一人のためのもので、構築法は類似していても横穴式石室とは本質的に異なる。河原石乱石積の石室(石棺)は石材に恵れない地域の場合、木棺直葬となって現われるのではないか。経塚下古墳石室(石棺)に木棺を納めたのではなく、直接遺骸安置を行なった。この種の石室への被葬者層は浄土古墳被葬者層も含まれた巾広い階層と想像される。
 墳丘を造らず、地下に木棺や石棺を埋設して死者を葬るということは、すでに古墳としての意味を失ったといえよう。これらは単なる死者埋葬の施設であり、お墓である。お墓はすべての階層の人々がつくり、首長や一族の指導者のみのものではない。昭島の古墳は経塚下古墳などを最後として、その後は造られなくなったと思われる。