二 野毛大塚古墳と墳丘の巨大化

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 五世紀は古墳規模巨大化の時期である。畿内など古墳文化の中心地だけではなく、東国でも前方後円墳などの墳丘巨大化は五世紀代古墳の最も特徴とするところである。多摩川流域に現われた最初の古墳は小規模円墳で、つづいて全長九〇メートルに達する前方後円墳であったが、それに続く古墳はさらに墳丘が巨大化された。円墳では多摩川流域最大の野毛大塚古墳が営造され、多摩川流域においても五世紀代古墳の特徴が認められる。
 多摩川流域最大規模古墳は前述の亀甲山古墳である。野毛大塚古墳は径六六メートルの円墳で、円墳としては東京最大である。箱式石棺を埋葬施設とし、内部から多量の石製模造品が発見された。石製模造品には履・酒槽・台・坏・盤・甑・斧・刀子・勾玉・臼玉があり、なかでも刀子は二三三個を数えた。この外にメノウ勾玉・碧玉製管玉・刀剣片・甲冑片などがあった。
 石製模造品は本物に代るものとして祭祀に利用された。五世紀前半代における石製模造品の普及は著しく、被葬者を祭る必要が急速に高まったことを意味している。すなわち、首長権の後継者は被葬者の祭祀権を得ることによって後継者となることができたものである。巨大な墳丘に象徴される強力な首長権の継承には一層強力な支配力の成立を必要としたが、野毛大塚を中心とした古墳群の、野毛大塚につづく古墳に現われた実態からは、五世紀前半代より強力な政権を想定することはむずかしい。このような史的背景が野毛大塚古墳への著しい石製模造品副葬となって現われたのではなかろうか。
 野毛大塚古墳と同時期の古墳として、同じ古墳群中の八幡塚古墳・天慶塚古墳をあげることができ、また世田谷区成城所在砧中学校古墳群第七号墳をあげられよう。世田谷区等々力の御岳山古墳も五世紀代の古墳で、その末葉に比定できる。
 八幡塚古墳は径三〇メートル、高さ四・五メートルの円墳で、埋葬施設は不明であるが出土遺物に石製模造品の刀子二二個、鉄刀二個、〓一個、袴帯金具二個が知られている。天慶塚古墳も円墳で、墳頂に石棺があり、石製模造品の刀子多数、鉄刀が出土したという。両墳とも五世紀半に比定でき、野毛大塚古墳よりは遅れての営造かと思われる。野毛大塚・天慶塚・八幡塚古墳は野毛古墳群に属し、宝来山古墳被葬者の成立せしめた地域首長権を支えた首長層の墳墓であったと思われる。
 五世紀半には多摩川下流域にいわゆる荏原古墳群の田園調布古墳群・野毛古墳群より新しい古墳群である砧中学校古墳群大造営が始まった。この古墳群は荏原古墳群被葬者集団の系譜につらなる被葬者の墳墓と思われる。砧中学校古墳群最古の古墳は第七号墳で、全長六七メートルの前方後円墳である。粘土槨を埋葬施設とし、小形〓製乳文鏡一、管玉一四、小玉三一、鉄刀八、鉄鏃一一、刀子二〇、鉄斧一、砥石一が出土しており、多摩川下流域左岸の前方後円墳は、宝来山古墳→亀甲山古墳→砧中学校古墳群七号墳とたどることができ、この後は狛江古墳群亀塚古墳→絹山古墳→観音塚古墳へと、浅間神社古墳を除いて営造年代順に並べることができる。このように多摩川下流の前方後円墳は宝来山古墳に始まり観音塚古墳に終る。
 野毛大塚古墳を中心とした野毛古墳群には前方後円墳はみられず、一方宝来山古墳・亀甲山古墳を中心とした田園調布古墳群には五世紀半~六世紀半の前方後円墳を欠いている。浅間神社古墳がこの間の前方後円墳としても、半世紀間は前方後円墳の営造をみないことになる。すなわち、この時期の前方後円墳の営造は砧中学校古墳群、さらに上流の狛江市和泉の狛江古墳群に移った。このことは多摩川下流左岸の地域首長権が宝来山・亀甲山古墳の直系から傍系に移ったことを意味しているのではないだろうか。
 巨大な墳丘はもつが円墳である野毛大塚古墳の後継者と、砧中学校古墳群七号墳の被葬者とはほぼ同時期に生きた首長ではなかったかと思う。前者は八幡塚古墳などの円墳を営み、後者は全長六七メートルの前方後円墳を築造した。これは地域首長権の移動を想定しないかぎり合理的解釈はむずかしい。砧中学校古墳群七号墳の全長にはほぼ等しい直径をもつ野毛大塚古墳がなぜ円墳であったのか。これは巨大円墳が東国に濃密に分布することと同様の意味がこめられていると理解すべきであろう。すなわち、野毛大塚古墳の被葬者と亀甲山古墳の被葬者とは、古墳への埋葬時期は異なっても、ある時点では同時に生きた首長であり、前者は畿内政権との結びつきによって多摩川左岸流域の地域首長権を握り、後者はその支配領域のなかで首長権を支えた首長として勢力をもち、畿内政権を直接的背景としなかったところに墳墓が円形を呈した理由があったのではなかろうか。だから、首長権をにぎれなかった野毛大塚古墳の後継者の墳墓も円墳であったのであろう。