多摩川流域に古墳が出現し、横穴式石室が採用される約二〇〇年間の埋葬施設は、粘土槨各種、礫槨、木炭槨、木棺直葬、箱式石棺などの多様化がすすみ、とりわけ粘土槨は粘土床的なもの、木棺の上蓋を覆わないもの、河原石を併用するもの、文字通りの粘土槨などが見られる。狛江市和泉の亀塚古墳は木炭槨二基、箱式石棺一基を埋葬施設とし、墳形は前方部が著しく短い帆立貝式の前方後円墳で、古墳の多様化を単的に物語っている。
亀塚古墳と同時期の古墳として、野毛古墳群の御岳山古墳があげられる。この古墳は径四二メートル、高さ五メートルの円墳で、河原石を敷いた粘土構造の埋葬施設をもち、円筒埴輪が樹立されていた。出土遺物に七鈴鏡一面、刀剣、短甲二領、須恵器、土師器などがあり、野毛大塚・八幡塚・天慶塚古墳の系譜につながる被葬者と思われる。
鈴鏡は宝来山・亀甲山古墳の属する田園調布古墳群の西岡二八号墳からも出土している。二八号墳は円墳で、横穴式石室を埋葬施設とし、六鈴鏡二面の他、馬具(轡)、直刀、鹿角製刀子、鉄鏃などが出土した。この古墳の営造時期は六世紀半と推定され、多摩川流域においては横穴式石室をもった最古の古墳といえよう。
亀塚古墳は五世紀末~六世紀初頭に位置づけられる全長四八メートルの前方後円墳で、尚方作神人画像鏡、鈴釧、管玉、ガラス玉、櫛、銀環、銀製刀子、直刀、鉄鏃、馬具(杏葉・鏡板・辻金具・輪鐙)などが出土している。鈴釧は鈴鏡と同時代に流行したものである。亀塚古墳の尚方作神人画像鏡は福岡県番塚古墳、大阪府郡川古墳、大阪府長持山古墳の鏡と同笵関係にあり、そしてこの鏡は日本での漢字使用の最古例としてあげられる和歌山県隅田八幡宮蔵人物画像鏡の原型になったものといわれる。尚方作神人画像鏡は五世紀初めに倭の五王の一人が中国に朝貢した際にもたらされたもので、鏡や馬具から知られる亀塚古墳被葬者はこれまでの多摩川流域左岸の首長以上に畿内政権との結びつきが強く、亀塚以外にこの時期の前方後円墳がみられないことからも、畿内政権を背景に多摩川流域左岸の地域首長権を握ったものと思われる。この首長権は同じ古墳群の絹山塚古墳被葬者に継承されたと思われる。絹山塚古墳は礫槨を埋葬施設とする前方後円墳である。
鈴鏡の配分を受けていた御岳山古墳や西岡二八号墳の被葬者は群馬を中心とした毛野地方政権との結合が強く、毛野地方政権を背景として多摩川流域の首長層たりえたのではなかろうか。彼らは宝来山・亀甲山古墳被葬者の傍系に当り、首長層としては常に第二位の位置にあったといえよう。
五世紀半~六世紀前半代の多摩川左岸流域では、畿内政権と毛野地方政権とが複雑にからみ、田園調布古墳群の観音塚古墳(または浅間神社古墳)被葬者が地域首長権を獲得するまで、宝来山・亀甲山古墳被葬者の系譜に属する首長層で争いが生じていたのではあるまいか。