四 横穴式石室の採用と普及

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 多摩川流域における最古の横穴式石室は前述のように六鈴鏡二面を出土した西岡二八号墳である。それは六世紀半のことで、東国一円に横穴式石室が普及しはじめた時期に当っている。西岡二八号墳の石室は自然石乱石積であるが、その詳しい状況は分らない。おそらく、多摩川の河原石を持ち送り状に積んだ狭長な石室であったろう。鈴鏡が毛野政権によって配布されたことと考え合わせると、多摩川流域の横穴式石室は群馬から導入されたものと考えられる。
 横穴式石室をもつ前方後円墳は観音塚古墳で、凝灰岩切石をもって構築した石室である。後円部墳丘には円筒埴輪・形象埴輪が樹立され、形象埴輪は人物・馬・靱・三輪玉をつけた玉纒太刀などである。石室からは管玉、切子玉、ガラス小玉、鉄環、直刀、刀子、鉄鏃、馬具(轡・雲珠・辻金具・〓具)などが出土した。浅間神社古墳も前方後円墳であるが、墳丘形状・埋葬施設・出土遺物などすべて不明であり、その位置づけができない。浅間神社古墳は絹山塚古墳のあとにつづく六世紀半の前方後円墳であるかも知れない。この推定が当っていれば河原石併用の粘土槨の可能性が強く、観音塚古墳のあとであれば埴輪をもたない方形の切石積横穴式石室で、最末期の前方後円墳ということになる。
 観音塚古墳の示す六世紀末~七世紀は多摩川流域に横穴式石室が急速に普及した時期である。多摩川流域の横穴式石室には凝灰岩切石積のもの、河原石乱石積のものの二通りがあり、上流から下流まで広く分布している。河原石乱石積の横穴式石室は初期の西岡二八号墳に現われているが、下流域より上・中流域に多く、昭島市の浄土古墳はこのなかに含められる。この種の石室の平面形は羽子板状または長方形で、横穴式石室でありながら天井石を取りはずして追葬を行なったものではないかと思われるものもあり、横穴式か竪穴式か区別し難く、封土を失って石室のみとなり、ひかえ積の河原石が著しいために積石塚古墳といわれているものもある。
 凝灰岩切石積横穴式石室は多摩川流域全体に分布し、その分布密度は下流域に高い。世田谷区・大田区の横穴式石室はほとんどこの種のもので、玄室平面形が羽子板または長方形になるものと方形になるものとに二分される。羽子板状(または長方形)横穴式石室は最奥玄室が三味線胴張り状になるもの、羽子板状(長方形)のものがある。また、方形横穴式石室も方形と隅丸方形に分類できる。この他、単室・複室・片袖・両袖・無袖などによって細分することは可能で、羽子板状石室から方形石室へと変化したと思われる。多摩川流域の最末期切石積横穴式石室は隅丸方形の平面で、腰板から上方は持ち送りとなり円形ドームを呈したと推定される。
 多摩川流域の横穴式石室は河原石・切石いずれの場合でも天井の残存することがまれで、そのため天井には木製板を用いたといわれた。木製板天井の証拠は今日まで発見されたことがなく、天井はすべて横長の河原石や切石を用いたのであった。側壁の持ち送りさえ行なえば短い石材でも十分天井の役割をはたすのである。
 多摩川流域の横穴式石室の系譜関係は、今後の課題といえようが毛野や北武蔵の三味線胴張の横穴式石室、また群馬県の切石積方形石室からの影響など考えられるところであろう。
 横穴式石室の時代に入って、世田谷区野毛・大田区田園調布の古墳群は毛野政権との結合を強める一方、弱体化した畿内政権との連係を保ち、多摩川流域左岸の首長権は再び宝来山・亀甲山古墳被葬者系譜にもどった。田園調布古墳群の観音塚古墳または浅間神社古墳は多摩川流域最後の古墳で、横穴式石室や横穴墓被葬者群をその支配下におき、地域首長権を強化したことであろう。しかし、多摩川流域における横穴墓の流行はやがて伝統的首長層も横穴墓を採用しはじめ、横穴式石室が消滅した後も横穴墓は営まれた。