五 ローム層の横穴墓

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 関東平野の大部分は富士火山による大量の火山灰が堆積し、数メートルにも及ぶ厚い層をなし、それは関東ローム層・いわゆる赤土層とよばれ、表面は黒色土層に覆われ、段丘崖面にはローム層が露呈している。多摩川下流域やその支谷にはローム層の段丘崖が発達し、そこにローム層をくり抜いた素掘りの横穴墓が造られた。ローム層は粘性が強く、削面の崩落が少ない上に掘りやすい。横穴墓は凝灰岩層や軟砂岩層に造られるのを通例とするが、多摩川流域では発達したローム層を利用した。昭島市域の多摩川崖線にはローム層の発達はみられず、したがって横穴墓は発見されていない。
 横穴墓は五世紀半に北部九州で営造されはじめ、東国では六世紀後半期に採用された。多摩川流域でもその頃と思われるが、菊池義次氏によれば前室を有する羽子板状横穴墓と箱式石棺を納める酒徳利状横穴墓が最古形式で、単純な酒徳利状横穴墓が終末のものとしている。
 多摩川流域の横穴墓は大田・世田谷両区に最も濃密に分布し、この地域に造営された横穴墓だけでも数百基を越えるであろう。一ケ所に十数基がかたまり、七世紀半が横穴墓営造の全盛期といえよう。一般に出土遺物は少なく、鉄刀、刀子、金環、勾玉、ガラス小玉、須恵器、土師器などである。大田区馬込の塚越横穴墓群の一四号横穴墓は例外で、金銅製外装の頭椎太刀一、金銅製外装の圭頭太刀一、直刀五、刀子四、挂甲小札、鉄鏃一一七以上、馬具(轡・鉄地金銅張杏葉)などが出土し、横穴の形状は粗略で規模も小さなものであった。奥壁に近い部分に床面より一段高い段状構造が付加されており、菊池義次氏は最古形式の横穴墓に先行するものと考えている。塚越一四号横穴墓は出土遺物から六世紀末~七世紀初頭が営造期と推定され、観音塚古墳と同時期で、この点では多摩川流域最古の横穴墓といえよう。
 前方後円墳が営まれているなかで、横穴墓が多摩川流域の墓制に採用されてくるのはいかなる理由によるのであろうか。首長墓は依然として前方後円墳であるが、それより豊富な副葬品をもった塚越一四号横穴墓被葬者は一体何者なのであろうか。
 横穴墓や横穴式石室の普及はそれまで墳墓に埋葬されなかった人々にまで墳墓を造らせた。彼らの大部分はもちろん首長層ではなく、集落の構成者であった。こうした墳墓は集落構成者のなかでも生産力の向上によって有力化した人々が構築したと思われる。金銅装頭椎・圭頭の太刀をはいた塚越一四号横穴墓被葬者は、宝来山・亀甲山古墳被葬者一族の系譜に属せず、六世紀になって抬頭し、首長層に例した集落の一員ではなかったか。彼は多摩川下流左岸の六世紀代首長が毛野地方政権を背景としたのに対し、積極的に畿内政権との結びつきをもった。だからといって彼は前方後円墳や円墳を構築できる伝統的氏族の出身ではなかった。そこに当時流行しはじめていた横穴墓を採用せしめたものがあったのではなかろうか。
 ひとたび集落構成者によって横穴墓が採用されると、有力者は競ってローム層に横穴を掘り、こうして七世紀半に横穴墓の盛行をみることになった。後には、前述のように伝統的首長層さえ高塚古墳をすてて横穴墓を営造するようになるのである。多摩川流域の横穴墓が一様に掘削され、丁寧な仕上げまで行なわれているのを見ると、横穴墓掘削専門集団が誕生していたのではなかろうか。