一 初期社会とその発展

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 弥生時代多摩川流域の中心は下流左岸にあり、とりわけ久ケ原遺跡は例をみないほどの大集落であった。権力をもった地域支配の首長は多摩川弥生社会にはまだ現われなかったが、方形周溝墓を営造する集落の統率者的首長は存在していたとみてよい。多摩川の支流浅川や湯殿川の流域では多数の方形周溝墓が営まれ、とりわけ最近調査の椚田遺跡から数十基発見され、多摩川本流・支流域の遺跡中最多数となっている。このように弥生社会には古墳社会の成立基盤ができており、畿内を中心とした古墳文化の成立とともに、多摩川弥生社会にも大きな変動をもたらした。畿内政権あるいは多摩川下流域より早く古墳社会を成立せしめていた東国の首長との接触によって、この多摩川下流左岸にも自らの力を強め、支配強化した首長が出現した。彼は西方の文物を入手し、方形周溝墓制から脱出、古墳を築造した。その首長権を継承した宝来山古墳の被葬者は多摩川左岸流域の大部分を支配下におさめ、それは昭島市域にまでも及んでいたのではなかろうか。宝来山古墳被葬者の首長権を支える集落の首長層は、まだ伝統的な方形周溝墓を営造していた。多摩川流域左岸の首長権は亀甲山古墳の成立によって最高潮に達し、その支配領域は一層拡大・強化したものと思われる。
 首長権を支えた下部の首長層の成長もめざましく、それは何といっても野川や多摩川下流域の湿地開発が大きくすすめられ、そして武蔵野台地への進出をはかっていったところに起因するものであろう。しかし、やがては首長層の間で首長権をめぐっての争いも生じたであろう。それが砧中学校古墳群七号墳や亀塚古墳の成立となって現われ、またのちの鈴鏡の分布がそれを意味していると理解したい。その争いはあくまで宝来山・亀甲山古墳被葬者の系譜内でのことであり、首長権の継承であった。野川の上流や多摩川の中流域に下流の勢力とは異なった新しい地域首長の誕生はついになかった。