五世紀半から多摩川流域古墳社会では社会の変容がおこっていた。方形周溝墓を形成していた首長層が古墳を築造しはじめ、小規模古墳は増加した。彼らは首長権を支えた首長層ではあったが、地域首長が畿内政権と結びついて成長してきたのとは対象に、地域首長を支える一方、毛野地方政権との連係も密で、その影響を受けていた。最初の横穴式石室の導入者は彼ら首長層のなかから現われた。しかし、当時はまだ粘土構造の埋葬施設が主流を占めており、横穴式石室の普及は六世紀末葉になってからである。集落における人々の成長はめざましく、首長層の系譜に属する集落構成者は、横穴式石室を埋葬施設とする古墳をもった。その頃から新興の有力者も誕生しはじめ、多摩川流域古墳社会の階層分化は激しさを加えた。新興の首長層は当時東国に波及していた横穴墓を採用し、伝統的首長層が台地端の見晴しのよい場所に墳墓を営造してきたのに対し、その下の崖を選んだ。ここには有力化した一族が相ついで横穴墓をつくり、群をつくるようになった。昭島市域のように横穴造営に適したローム層崖線の見当らない地域では、有力者は河原石を積み重ねた横穴式や竪穴式の石室を造った。
経塚下古墳
それは律令制古代国家形成への大きなうねりが起り始めていた頃であった。