一 日本民族の人種的構造

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武人埴輪(復原品)

 以上のような古墳時代までの東国、特に昭島市の立地する武蔵国の、文化の荷担者であった、この地域の住民は、一体どんな人びとであったのか。ということは、古くから東国の住民は「蝦夷」とか、「毛人」とか呼ばれ、あるいは『常陸国風土記』などには、東国の住民の中に、古くは「国樔」と呼ばれるような人びとも居住していたという所伝もある。そこでこれらの異族のように取扱われた東国の人びとは、これを人種学的にみた場合、何等かの特異性があるかという点に焦点があてられる。それを明らかにするためには、まず日本民族全体の人種構造論にふれなければならないが、それは極めて困難な課題であり、なお結論を出すには尚早であるが、当面の東国史の主人公である東国の住民を論ずるためには、一つの推論ではあってもこの点から述べなければならないので、ここでは私見によって、まず日本民族の人種的構造について記し、次いでそうした日本民族の中での東国人の特性についてふれることにしよう。
(一) 日本民族の起源については、葛生原人・牛川原人・三ケ日原人などの確実な旧石器時代人が、ヤポネシアの地域内に、洪積世の頃生活していた事実は確認されるが、彼等が現在の日本人の直接の祖先であるかどうかは、今日尚結論づけることは早計である。洪積世末から冲積世初頭にかけての、ヤポネシア周辺におきた地形・気候等の大変動期に絶滅したとみる公算も大きいからである。
(二) 中石器時代になって、日本列島と化する前に、わずかに北方で大陸とつながっていた時に、北東アジアから移動してきた、古シベリア族や極北種族の祖先をなす人種のある群が、原ウラル・アルタイ語の遠い分派である原日本語と共に移動してきて、列島の北部に定着しはじめたのが、プレ繩文文化の荷担者であり、この一群の人びとがつづいて繩文文化の荷担者となった原日本人で、われわれ日本民族の基幹人種を構成する要素であった。
(三) この日本民族の祖型人種は、現在のところ神奈川県横須賀市の平坂貝塚から発見された平坂貝塚人をもって、最古のティピカルなタイプとして、日本民族のオリヂナルな基本人種とみることができ、それを原日本人 Proto-Japanese とする。原日本人は遠くユーラシア大陸北方を通して、北欧・東欧・シベリアに連らなりをもつ、原ウラル・アルタイ語族の一員で、血液型はO型のユニークな原人種であり、シベリア東北方から陸続きであった樺太を経て、北海道、そして更に本州島北部に移動し、主として東北地方から関東地方の海岸地帯の、古い大湾入に面した沿岸丘陵・台地辺縁に居住した、北アジア的寒流系漁撈民の集団であった。
(四) 原日本人は以来数千年の長い年代にわたり、列島内に分布し、進化をとげたために、年代的・地域的に、多少のバラエティを示しながら、全体として一種族としての、日本新石器時代人(縄文人)という共通性を示す形質をもっている。骨骼上では明確な型差をもって混血のあとを示し難いが、血液型の上からは、二乃至三の異人種との、間歇的・少量的・地域的混血の痕跡を認められる。それ故日本民族は、人種学的には一つの混血民族として形成されたもので、それは新石器時代にはじまり、局地的かつ微弱な、永続的混血によって長い期間を通じて、原日本人を基幹人として、漸移的な民族形成がすすんでいたと考えなければならない。
(五) この基幹人種に混血した人種として考えられるのは、北方では現代アイヌ人の祖先である原アイヌ人、南方ではインドネシア族・インドシナ族が考えられる。
(六) 新石器時代末期に、西日本では、朝鮮半島を経由して、南ツングース系種族が移動してきて、原住民である原日本人と混血した。この段階で、西日本では繩文文化から、金石併用期といわれる弥生文化へと推移する。この大陸系種族は、扶余・〓・貊などと呼ばれる種族であり、いわゆる北方アジア系の森林狩猟騎馬民族である。そしてこの北方アジア系森林狩猟騎馬民族と東南アジアのインドシナ系種族とが、南鮮で混血してできた韓族も、同時に移動してきた。西日本、特に北九州沿岸地帯では、このような種族との混血が濃厚であった。前期弥生文化の荷担者の中の一部に、特に長身の要素が認められるのは、この朝鮮半島より南下した南ツングース族系種族の混入を示すものと思われるが、この新来種族は原住民である基本種族としての原日本人と混淆融合し、更に朝鮮半島及び北九州では若干のインドシナ系種族あるいはインドネシア系種族とも混血をしていて、そこにできた混血人種が、「倭人」とか、「倭の水人」とか、中国人によって呼ばれた人びとであった。すなわち繩文人と弥生人とは一系の原日本人であり、人種的には基本的な形質上の変化はなかったが、弥生人になると、特に西日本地域において、大陸北方系及び東南アジア系種族との、局地的・相互的混血が行なわれて、多少の変化を示したにすぎない。これは専ら漢民族の東アジア地域への一大エキスパンションの影響をうけて、人種移動が当該地域におこったため、日鮮間の交渉がはげしくなった結果である。
(七) 西暦紀元前後のころまでに、日本列島全域にわたって原日本人が均一的に分布していた所へ、北方においては原アイヌ人、西・南方においては南ツングース族・インドシナ族・インドネシア族が移動定住して、原日本人と混血をしていたので、東日本と西日本とでは多少の種族的型差が形質上にも、文化上にも生じたけれども、弥生文化の東日本への高速的伝播によって、西日本の種族・文化は比較的早くから、東日本の住民との間に混淆して、弥生中期以後にはすでに全体として均質的な一民族を形成するに至る基盤が形成されつつあった。
(八) この第一次民族形成の基盤の上に、更に第二次的な形成が進行して、現代日本民族の構造が確立したものと思われる。それは古墳時代を中心として行なわれた。古墳時代には日本列島の中央、近畿地方を中心として、顕著な漢民族や韓民族、あるいは古墳時代からそれにつづく飛鳥時代にいたる時期には、扶余系種族(高句麗)の渡来定住があり、いわゆる帰化系氏族の集団との接触混淆が進行していた。日本における氏族全体の三〇パーセントがこれら帰化系氏族と思われるので、近畿地方では特にこうした異種族の要素を形質的にも、文化的にも濃厚に受容したのであった。北方では前代に引続いて原アイヌ人との接触があり、裏日本では原アイヌ人のほか、オロッコ人などのシベリア原住民族との接触もあった。また南ではインドネシア族が引続き渡来し混血していたのであって、このような種族的混血による多少の地域的型差を生じながら、また漁撈生活から農耕生活への、生活様式の変貌に伴なう労働条件の変化による形質の変差がみられる。これらの要件によって弥生人から古墳人へと変化するが、この古墳人は全体として、すでに近代日本人の形質上のプロトタイプを示しており、いわゆる日本民族の人種的基本構造は、古墳時代人において完全に成立していたとみられるのである。
(九) 以上のようにみてくると、日本民族は明らかに混血民族である。けれどもその意味するところは、人種闘争による征服と屈従の関係による、強制的・一方的・一時大量的混血を意味するものではない。日本民族を構成する基本人種は、ヤポネシア形成以後連綿として、列島内での生活をつづけてきた単一人種である原日本人を基幹として、数千年の長い石器時代を経過する間に、質量共に圧倒的であった原日本人が、時として日本列島に移動してきた諸人種と、長期間にわたって、少量的な、かつ局地的な、ゆるやかな混血を繰り返しつつ接触・混淆・同化して、今日の民族を形成するに至ったものであることを示すのである。
 すなわち日本民族は、この日本列島をば、唯一の故郷として、そこでのみ長い年月をかけて次第に形成されてきた民族である。かくして日本民族は、一方においては古い伝統的な形質を保ち、その反面では新しい、ほどよい異種族の血液を摂取して、民族形質の老化を防ぎ、古い形骸の中に新しい息吹きをつづけ、生々発展をとげてきた民族である。日本民族とは、この日本列島を一つの大きな坩堝として、諸々の要素を溶け合わせてつくり上げられた、一つのアマルガムに他ならないのである。こうした人種構造上の特色は日本民族文化の形成と、その歴史的な発展上に、一つの基本的な前提条件をあたえるものである。