一 古代武蔵の住民とその変遷

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 東国人と称される人びとの人種的構造を、日本民族の人種構造の課題と関連ずけて推定をすると、その基盤は大要前説において述べたような結論に達する。そしてこの推定の結果、東国人を古く大和の人びとは「蝦夷」とか、「毛人」とか言って識別をしたが、それは決して人種学的な差異を意識したものではなかったことも明白である。それは「記紀」編纂時点での、中国の夷蛮思想の影響をうけた編纂者たちによって、大和人の大和中心主義史観による、四夷観に発した、より古い時代の東国には、大和政権にまつろはぬ、あらぶる者共がいたという観念によってつくられたものである。それ故第七世紀の頃には、すでに東国人については、大和人にも明確な認識ができていて、「蝦夷」という概念は、関東地方から更に北へと移行し、東北地方の住民を指すようになり、第八世紀以後には一層北方に移り、東北地方の北部へと限定されていく傾向を示す。そして『万葉集』にみるように、東国の住民は、「東歌」という用語のように、「アヅマビト」として「蝦夷」とは区別されるようになってくる。そういうきざしは、古墳時代の、東国への古墳文化の伝播という史実を通して、また倭政権の東国進出という史実を通して、倭政権が東国にその勢力圏を拡大していく過程において認められるのである。
 東国の住民の中に、弥生時代から西日本からの住民の移動があり、それらの新来の人びとと接触をもっていたということの一つの証拠としては、武蔵国の地名の中に、古朝鮮語をもって解し得る地名があること、また別な一つとしては、武蔵国の古社の中に、出雲系の古社が多く分布しているということからも推定される。それら西国から東国への、きわめて古い時代からの移住者は、いずれも裏日本方面からの移住者の集団であったと思われる。その一つの集団は、日本海ルートによって山陰地方から北陸地方の沿岸地帯へかけて移動してきた出雲系の人びとの集団であり、いま一つの集団は彼等と同じコースを通って来た新羅方面からの韓族系の人びとの集団であった。前者は古い神社に出雲系の神社が多いことと、古墳の中に出雲系と目すべき、前方後方墳の東国における分布の状況などから推定できるし、後者は既説のように新羅系の古朝鮮語による古地名の、武蔵国内における分布の状況から、これら移住者の定着地を推定できることによって想定できる。そうしてこれらの移住者は、まず北陸から信濃を経て、後の東山道にそった古道を経て、北関東に出て、毛野国に入り、そこから南下して武蔵国に入るというコースを通ってきたので、武蔵国は北方から南方へと、生活圏が拡大されていった。だからまず荒川流域に武蔵の中心があり、北部から開けていった。そのことはいまも大宮市に鎮座する出雲系の古大社、氷川神社が武蔵国の一の宮であることからも首肯されよう。次いで武蔵野台地を南へ抜けて、その文化が多摩川流域に波及する。南武蔵への文化の伝播によって、多摩川流域が武蔵南部の文化の中心になる。その頃、信濃に入った人びとは甲州路を経て西北から武蔵へ抜けるルートを通して別に武蔵国へ入るようになった。このルートは繩文時代からの交易路でもあったが、多摩川及びその支流の谷に沿って、西北から東南へと武蔵野の南部を貫通する交通路によって移動した。日原路や笹子路がこの武蔵へのルートであった。
 そして五世紀以後になって、倭政権が東国へ進出してくる段階になると、それは専ら東海道沿いのルートを通って、遠征が進められるので、伊豆-相模-下総-安房-常陸という南方ルートによって、倭政権の勢力圏がのびてくる。そこで五世紀から、六世紀にかけては、まず相模国の南部に倭政権の勢力が波及し、それから北へ向って徐々に武蔵国の南部へその勢力を浸透させてきたのであるが、南武蔵が大倭政権の勢力に統合されるのは六世紀の前半に入ってからである。大倭政権の東国支配は武蔵国を南から北へと展開し、やがて東国において、最後まで半独立国的勢力を維持して大倭政権に反抗していた毛野国を、六世紀の中葉に至って、遂に統合することに成功したのであり、その征服は相模-武蔵-毛野と南から北へとおしすすめられたのであった。こうして七世紀に至る頃までに、繩文時代以来久しきにわたって、直接西日本の人びとによる支配下に服従せず、繩文人としての原日本人を基本的な種族要素とし、独自の生活を営んできた武蔵国の住民は、その間裏日本地域から移住してきた出雲系種族や、朝鮮からの古い帰化集団の人びと、特に新羅系の帰化集団の人びとと若干の混血融合を繰返しつつ、独立した生活をつづけてきたのであった。だがこの段階において、新しく東国へ進出してきた大和人の支配に服従し、その種族的・文化的影響をうけるようになると共に、新たなる支配勢力の東国支配の中心が、武蔵国におかれるようになり、しかも後にその武蔵国庁が多磨郡に設置されるに至ったように、武蔵国の中でも昭島市域の東方に接続する府中市附近が、大倭政権・律令国家東国支配の要となったため、昭島市域の住民は、最も強く支配と感化との影響をうけることになったのである。