二 式内社より見た武蔵国の開拓者

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 われわれが古社と言う場合の一つの規準は、『延喜式』に載せられている神社、すなわち「式内社」と呼ばれる神社をさすのであるが、『延喜式』と言うのは、平安時代の醍醐天皇の延喜五(九〇五)年に、藤原時平・忠平等に命じて、それまでに聚成されていた『弘仁式』や『貞観式』を、更に統合編纂させた律令基本法の施行細則の聚成である。彼等は以後命を奉じて二二年を費し、延長五(九二七)年になって、漸く『延喜式』五〇巻を完成している。その『延喜式』の巻第九及び一〇には、当時神祇官に登録されている全国の大小神祇の名が、国郡別に列記されている。それを通常、『延喜式神名帳』または略して『神名帳』という。この『神名帳』にみえる神社が、すなわち「式内社」である。
 そこで武蔵国に平安時代初期までに存在した神社を調べるには、この『延喜式神名帳』によらなければならない。当時全国では総じて三一三二座、二八六一ヶ所に式内の官社が散在していたことが明らかであるが、その内武蔵国には合わせて四四座の官社が存在していた。そしてこの四十四座の中、大社は二社含まれ、他はすべて小社である。この数は全国総数の一分四厘を占めることになるが、東海道一五カ国の内では、伊勢・尾張・伊豆・遠江に次いで第五位にある。これを全国の神社数と対比させて表記すると上表の如くまとめることができる。

全国式内社分布表

 この表によって言えることは、大和国を中心として、大和国家の勢力の中心地に著しく神社が濃密な分布を示すということと、その地域から遠ざかるにつれて、地誌的距離に正比例して神社数は低減していくということ、そしてまた古くから大和国家に服属していた地域、あるいは神話・伝説の上で古くから大和と密接な関係があったと伝えられている地域では、特に神社数が多いということが明瞭に示されていることである。このような全国的な神社分布より見て、武蔵国の神社分布について言えることは、次のような諸点である。
(一) 武蔵国の官社数四四座は、全国平均一国分布数四六・〇六座よりやや少ない数を示すが、武蔵国は大国であり、延喜の制では遠国となっている。前述の全国的な神社分布数から言うと、大和国から遙かに隔った地域であるにも拘らず、その分布数はむしろ多い方である点を注目すべきである。このことは武蔵国が大和国家と比較的濃密な関係にあったことを、一つには示唆しているとみることができよう。
(二) 武蔵国の官社座数を東国におけるそれと比較してみよう。ここでは特に東国といってこれを関八州に限っておく。すなわち東海道に属する相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の六国と、東山道に属する上野・下野の二国であるが、この八ヶ国の中で、最も官社の多いのは武蔵国であって、それにつぐのが、常陸と相模である。したがって大和国家の勢力は、東海道を通って東国に波及してきたということが、この点からも明確になる。そして武蔵国が特に官社の多いことは、一つには、そこが比較的早くから大和国家の統制下に編入されていたことと、律令国家体制のもとで、ここが東国を支配する上で、大和国家が前進基地として、最も重視していた地域であり、大和勢力との関係が特に深かったことによるものであろうと思われる。いま東国の神社分布状況を表記すると次表のようになる。

関八州神社分布表

(三) 官社の分布を一層細かに検討するために、官幣社と国幣社とに分けてみる。官幣社というのは神祇官より直接幣帛を領たれる社であり、国幣社とは、各国の国司が神祇官に代って奉幣する社の意味で、官社は大きく神祇官祭神と、国司祭神とに区分されていた。桓武天皇の延暦一七(七九八)年までは官社はすべて神祇官祭神であったのが、遠方の国々の官社は、その国の物を以て官幣を奉るのに代える制度に改められるに至って官幣社と国幣社との別ができたのである。延喜の制では、京に近接した五畿内の神社は悉く官幣社とし、七道諸国の神社は、特に由緒のある大社を除く外は、すべて国幣社と定めた。そしてこれらの官・国幣をすべて大社と小社とに二階に区分した。したがって東海道以下諸道には官幣小社は全くないし、西海道には官幣社は大小共一社もない。いまその全国的な分布を統轄してみると次頁の表のようになる。

 

こうした間に、武蔵国四四座のうち、大社と称する社は二社、しかも内一座は官幣大社であり、他は国幣大社である。官幣大社は足立郡の氷川神社で「名神大」に列し、国幣大社は児玉郡の金佐奈神社で、これも「名神大」に列している。大社は祈年の奉幣をうける他、月次・新嘗等四度の祭祀、若干の大社には相当祭に預かる制であり、かつ大社のうち年代も古く、由緒も正しい、崇敬顕著な神々を選んで、国家の事変などに際し、特に奉幣祈願する臨時の祭祀である名神祭に預かる特定の神社を、「名神大社」略して「名神大」というのである。こうした大社・小社の分布からみると、関八州で大社は一八座あり、その中常陸国には七座がある。上野国の三座・武蔵国の二座・安房国の二座のほか、相模・上総・下総・下野の四ヶ国は各一座のみである。常陸は神話・伝説によって建御雷神や布都主神が東国の遠征をし、それぞれ鎮座した地であり、前の四国はその神によって征服された地となる。故に大和国家の東方蝦夷経略の進駐基地であった常陸国にこのように名神大社が多いのは当然である。ところで武蔵と上野とは、直接建御雷神とは関係のない地域であり、武蔵が大和国家の勢力圏に服属したのは六世紀で、上野はそれよりもやや遅い時期である。すなわち武蔵と上野はずっと後まで独立性を強くもっていた地域であった。そういう地域である武蔵と上野には、大社数の二七・七八パーセントを占める五座しかないが、小社になると武蔵四二座、下野九座で、合計五一座となって、東国の小社総数の四五・五四パーセント、約半数がこの二国に集中していることになる。大社の多い常陸は小社も二一座を数えるが、それでも武蔵一国の半数にしか当らない。この現象は次の如く理解されなければならない。すなわち常陸などのように、直接大和国家の征服に関係のある地域では、遠征とかかわりのある軍神のような効験の顕著な大和系の神々が祭られ、名神大社が多いけれども、そうした遠征や征服に直接関係のない武蔵や上野のような地域では、そのような効験顕著な名神は祭られていないので、大社の数は少ないが、そういう神とは別に、由緒のある著名な神々が、古くから住民によって祭られていたので、官社として認められた小社が多いのであるということである。
(四) では武蔵国に多い、由緒のある著名な神々とはどういう神なのか。武蔵国足立郡の「氷川神社。名神大。月次新嘗。」という現在の大宮市氷川神社は、官幣の名神大社であることは明らかである。武蔵国の一の宮であるこの大社の祭神は、素戔鳴尊・大己貴命・奇稲田姫命の三神である。そしてまた国幣大社である児玉郡の金佐奈神社(児玉郡神川村金鑚鎮座、利根川支流金鑚川流域)の祭神は素戔鳴尊である。そうすると武蔵国の二大社はいずれも大和国の神-天津神系の神ではなく、出雲系の神を祭神としているわけで、これは常陸の場合とはやや異る。そこで関八州に分布する官社の中で祭神の上から、天津神系の大和系神を祭る社と、国津神系の出雲系神を祭る社との比率をみると、次表のような結果をうる。

東国官社中に占める出雲系神社数

この表で明らかなように、関八州には総じて大和系の神を奉祀する神社に対して、三分の一を占める出雲系の神を奉祀する神社があることが注目される。特に出雲系神社が集中するのは、下野の六三・六三パーセントという数値を筆頭に、武蔵の四五・四六パーセント、上野の二三・三三パーセントと、北関東から武蔵にかけての南北線上に位置する地域であることは注意すべき点である。それに対して大和国家の征服がおし進められた伝承のある、相模(一五・三九パーセント)・安房(一六・六七パーセント)・上総(〇パーセント)・下総(一八・一八パーセント)・常陸(二八・五七パーセント)の五ヶ国では出雲系の神社の分布率はきわめて低い。概して北関東に出雲系神社は濃密であり、逆に南関東では大和系神社が濃密であるといえる。
 北関東の両毛地方は、既述のように古くから独立性の強い地域で、容易に大和政権の支配下に入らず、最後まで抵抗していた所であり、その地域に大和系神社が少なく、出雲系神社が多いのは、大和政権に抵抗した毛野の勢力を形成した人びとが、出雲系の神を信仰する土着集団の人びとであったと見ることができる。そこで毛野と関係の深かった武蔵に、出雲系神社の多いことは、両毛地方に出雲系神社の多い傾向が、北関東から南下伝播して、武蔵国に波及したのではないかと考えられる。換言すれば、武蔵国はその地誌的位置が南関東に属しながら、相模・安房・両総・常陸の南関東諸国に接近するよりは、歴史的にむしろ北関東諸国と接近する方が多かったので、古くからその文化圏や、政治圏は北関東地域と同一文化圏を形成していたと解される。上野・下野の文化は、東山道を通って、北陸-信濃を経て入って来たもので、その文化を荷う人びとは出雲系氏族の分派であった場合が多い。それ故これらの人びとが信仰対象としていた出雲系の神々が、両毛地方の社に、祭神として祭られたことは当然である。そして両毛地方に進出した出雲系の集団が南下してきて、武蔵野に北方から南下して土着し、武蔵野の開拓者として、この台地の上に拡散したという考え方を可能にする。
(五) 武蔵国の古社に出雲系神社が多いことは前項によって明らかになり、それによって武蔵国の古い時代の開拓者に、出雲系氏族集団の人びとの移動・定着という事実が明らかになった。けれども更に詳細に検討を加えるならば、等しく出雲系神社と称しても、そこにはいくつかの異った系統があり、これが四つの系統に細分されることを注意しなければならない。それは、
 (A)大国主神(大己貴命)を祭る集団。出雲の主神としてのこの神を奉祀する出雲族。
 (B)少名彦那命を祭る集団。少名彦那命は、海を渡って出雲に渡来した客神であり、大己貴命と協力して、出雲の経営にあたった神であるから、これは海神系の神である。したがって出雲に渡来した漁撈民が斎き祭った神であり、固有の出雲族とは異った種族の集団とみられる。それはおそらく南方系種族であり、阿曇族系で、出雲族と共に東方へ移動し定着したものであろうと思う。
 (C)素戔鳴尊を祭る集団。素戔鳴尊というのは「記紀」の伝承でも明らかなように、新羅から出雲へ渡来した異族の神である。したがってこの神を奉斎する集団は、古い新羅系の帰化氏族集団であった。この神を奉斎しながら、出雲族と共に同じルートを通って移動し、東国にまで拡がった新羅系帰化人集団の存在を推定できるわけである。
 (D)経津主命(布都御魂命)を祭る集団。経津主命は、建御雷神と共に、天神の命をうけて、大八洲国を平定する時に副えて下され、建御雷神と共に協力して国土の平定に尽力され、常陸国にまで来られたという出雲系の神である。したがって出雲系の神の中でも、この神は、大和国家の征服のための遠征の影響を受けた南関東の国、特に常陸を中心として分布している。

東国への出雲族の移動路線想定図

 以上のように出雲系の神社の分布を細分してみると、一層前述の出雲族とその東国への移住の関係がはっきり把握される。すなわち私は大国主神・素戔鳴尊・少名彦那命系の神社は、一番古い時代の出雲族と、彼等と同じルートを通って共に移動してきた新羅系帰化人、及び阿曇系漁撈民集団の人びとによって祭られたもので、それらの人びとは東山道を通って北関東から南下して武蔵国に入ったか、あるいは信濃より分れて甲州路を通って西北から武蔵国へ入って来たと考える。それに対して経津主命を祭神とする社は、新しい時代の出雲系氏族の移動を示唆するものであって、大和政権の東国遠征という史実の過程において、五世紀の中葉以降の、大和勢力の東漸に際して、出雲族で大和勢力に統合された者が、東国へ出雲族の伝統的信仰をもって移動してきたものとして、その民族集団は、主として東海道を通り、南関東諸地域に定住したので、武蔵国には余り影響を与えなかったものと考えられるのである。