一 倭政権の東国遠征

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鉄鏃と刀子(経塚下遺跡出土)

 五世紀に入ると、大和国を中心に畿内に勢力を拡大し、強力な王朝を樹立した倭政権-仁徳王朝と言う、『宋書』に見える倭王讃・(弥)・珍・済・世子興・武の五~六王の時代―が強大な統一国家の樹立の基礎固めのために、歴代にわたって東国の征服を遂行して、この世紀の間に、東国は南関東の太平洋沿岸の諸地域がその勢力圏に入った。すでに述べられたように、中期古墳から後期古墳が東国にも漸次普及しており、円墳や前方後円墳を通して、畿内古墳文化の東国への伝播と、東国での古墳文化の受容が明らかになり、三角縁神獣鏡も東京都(武蔵国)の白山古墳から発見されており、畿内文化との接触があったことを如実に示している。
 東国については、『古事記』や『日本書紀』では、すでに崇神天皇の時代、すなわち三世紀の後半から四世紀の初頭の頃に、四道将軍の派遣があって、建沼河別命を東方十二道へ派遣し、東方諸国がすでに服属されていたという物語があり、また四世紀の中葉には、景行天皇の時、倭建命の東方の蝦夷征伐の物語が記されているが、それらを直ちに史実と見るには大いに困難がある。また『日本書紀』によると同じく四世紀の中葉の頃に、神功皇后が、新羅・百済との交渉のもつれがあり、その真実を追求するために、千熊長彦を彼地に派遣したとある。この千熊長彦について『日本書紀』の細註には、「千熊長彦は、明らかにその姓を知られざる人なり。一に曰く、武蔵国の人なりと。今これ額田部槻本の首等の始祖なり。百済記に職麻那那加比跪と言うは、蓋しこれか。」と記している。額田部槻本首の始祖とされている千熊長彦が、なぜ武蔵国の人とされたのかは明らかでないが、この記述は『日本書紀』における武蔵という国名の初見である。しかしこの人物が東国人として、すでに大和の政権に服属しており、その重要な外交官として活躍したということを、これまたそのまま史実をみることはできない。
 大和政権が、五世紀に入って、その勢力強化のために、その伝統的な政策として掲げられる所は、列島征服によって新しい領地を開拓し、その新附の地に、
(一) 地方豪族を服属させ、それを大和の地方官司として活用して、間接統治体制をはかる。
(二) 名代・子代の部を設定して、貢納制をしく。
(三) 後には各地に屯倉(みやけ)をおいて直轄支配体制を布く。
このような三つの政策をとるわけであるが、こうした政策は、一応遠征が終って、その領土が東方に拡大された五世紀の終りから、六世紀にかけて顕著に現われてくる。五世紀における東方遠征についての明確な記載はないが、『宋書』に見える倭王武、すなわち雄略天皇が、宗の最後の皇帝である順帝の昇明二(四七八)年に使を派遣して提出した上表文が記されているが、それは朝鮮の南端にある任那加羅が、南鮮の百済や新羅と同様、次第に北鮮の高句麗の圧迫によって危険になっているので、その高句麗の南進を防禦するために、偉大な宋朝の力を以て援助してほしいという愁訴状である。その上表文の冒頭において倭王武は、「封国は偏遠にして、藩を外になす。昔、祖禰より、自ら甲冑を〓き、山川を跋渉して寧処に遑(いとま)あらず。東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、海を渡りて北を平ぐこと九十五国云々。」と言っている。これによれば、雄略天皇の時代までに東方の毛人-東国の住民-を平定し、その五十五国を服属したというのであるが、その数や、範囲はもとより明らかではない。しかし五世紀の倭政権が伝統的な政策として、東方開拓に執念をもやしていたことは推測される。そして雄略天皇が倭王武であり、この天皇を『常陸国風土記』では「倭武天皇」と記しており、それは古くから「ヤマトダケノスメラミコト」と訓まれ、「記紀」に言う倭建命(ヤマトダケノミコト)のことだとする。とすると「記紀」に言う倭建命の東国の蝦夷征伐の物語は、実はこの雄略天皇の東方征服の物語を、伝説として反映したものと解釈できる。倭建命実は倭王武=倭武天皇、すなわち雄略天皇である。とするとこの遠征者、悲劇の英雄雄略天皇の東国遠征は、倭建命伝説の蝦夷征服物語にみえる征服コースを追ってみると、『日本書紀』では、大和-伊勢-駿河-相模―走水海-上総-陸奥-日高見-常陸-甲斐-碓日坂-信濃―尾張と示されており、『古事記』では、大和-伊勢-尾張-相模-走水海-上総-足柄坂-甲斐-尾張というコースで示され、両書で多少の相異があるが、伊勢から南関東にわたる地域が、ほぼ倭政権の勢力が浸透した地域とみてよさそうである。とにかくわれわれは雄略天皇の頃に、東国では、南関東の相模・上総・下総・安房・常陸が、五世紀における大和の政権としての倭政権に服属していたとみることができると思う。
 前にのべた千熊長彦の物語よりも、一層史実性をもった物語としては、茨田(まむた)堤築造にまつわる武蔵国人強頸(こはくび)の話がある。
 仁徳天皇の時代の話であるが、『日本書紀』の「仁徳記」一一年の条によると、難波高津宮の北を流れる川の氾濫を防ぐために茨田堤を築いたが、二ヶ所が壊れてどうしても塞ぐことができなかった。この時天皇の夢の中に、神が現われ、武蔵国の人で強頸と言う者と、河内国の人で、茨田連衫子(ころものこ)と言う二人をして、川の神を祭らせたら、塞ぐことができようと告げた。そこでこの二人をさがし出して、川の神を祭らせることになった。強頸は泣き悲しんで水に入って死んだので堤は完成した。しかし衫子の方は、大きな瓢箪を二つ取って水中に投じ、川の神に誓約(うけひ)して、「川の神が崇って私を犠牲に要求したので、私はここにやって来た。どうしても私が欲しいのならば、この瓢箪を沈めて、決して浮び上らせるな。もしそうならば、お前が本当に川の神だとわかり、私も水中に入ろう。しかしもしできなければ、偽りの神だということがわかるから、私はどうして徒らにわが身を亡ぼしましょうか。」といった。すると忽ちつむじ風が起って瓢箪は沈みそうになったが、波の上をぐるぐる廻って沈まず、ゆらゆらゆれながら遠くへ流れ去ってしまった。それで衫子は死なずにすみ、堤は完成したという話である。
 この物語は、既成の神に対する俗信に疑いを持ちはじめた畿内の先進地帯の人びとと、なお伝統的な古い神信仰の観念にしばられていた東国などの後進地帯の人びとの生活の姿を反映したものとも考えられるが、また次のようにも解される。仁徳天皇は倭王讃だといわれるが、五世紀の初頭に在位したと思われる、仁徳王朝=倭政権の始祖王である。その寿陵として伝えられる陵墓をみてもわかるように、倭政権の力が強化された時期である。その強大化の基盤は河内湖を干拓して、大規模な農耕灌漑地帯として開発する、先進的な大土木事業を完成させる新技術の受容にあった。茨田堤の築造とその完成の話も、こうした国家的な大土木事業の物語の一環として生れたものであるが、この記事によって、河内平野の開拓の労役に、東方遠征によって服属させられた武蔵国の住民などが、新たにかり出されて使役されたという事実をくみとることができよう。こうした労役に東国人を使役することも、大和の政権の東国の遠征の一つの目的であったと思われる。衫子の物語は、最早古い伝統的な信仰を、新しい技術が克服するということの表明とも受けとられるであろう。