武蔵国内部設置郡別表
名代はその名称の上から、中央においてそれが設定された年代の推定に役立てられる。多磨郡にあった名代の刑部は、允恭天皇の時代の名代だと言われ、日下部は雄略天皇の時代、白髪部は清寧天皇の時代と言われるが、ほぼ五世紀の後半期に入ってからのこれらの部が、武蔵国多磨郡に見られることは、先に述べた倭王武の東国遠征とからめて、大体相模から南武蔵が、この頃大和の倭政権によって服属、あるいは接触交渉をうけていたことは否定できない。武蔵よりも早く相模が倭政権に服属したことは、相模には名代として丹比部が設置されていて、これは武蔵の名代よりも時代の古い、反正天皇の時代とされていることからも推測できよう。
その他多磨郡には大伴部があるが、これは名代・子代ではなく、大伴氏の私民部(部曲)である。大伴部は、相模・武蔵・常陸・美濃・上野・陸奥・出羽・出雲・隠岐・周防・薩摩の一一ヶ国にも亘る広範な地域に分布しているが、特に大伴部は東国において広い分布をみ、そこに主力があるようである。これは雄略天皇の時代、大伴大連室屋が天皇の親衛軍の指揮官として、その東国遠征に活躍して、功を立てて大伴氏が武門の豪族として、中央政界に雄飛する基盤を確立させたのであるから、東国における大伴部の設置もこの時期以降にあるとみてよいであろう。このように、天皇家の名代・子代の設置と共に、諸豪族はまた私民部の設置に懸命であったから、共にその勢力伸張の場として、未開発地であった東国に注目して、その勢力の扶植を計ったのであった。かくして東国は五世紀百年間を通して、大和に発展した倭政権の傘下に編入されていった。しかしそれは東国全体が倭政権に完全に服属したことを意味するものではない。実質的には東国の豪族-国造層の地位を保証する役割を果し、その権力を間接的に浸透させた程度のものであって、完全な服属は次の世紀の到来にまたねばならなかったようである。