五世紀の前半、応神・仁徳陵に象徴されるような倭政権の完成をみた後、この政権は次第に大きな危機を迎えなければならなかった。その危機とは、国内における氏姓制社会の発達による、豪族間の政権争奪に伴う政争という内紛だけではなく、国外問題としての朝鮮半島の政情の変化によって現実化を余儀なくされたのである。朝鮮半島においては、五世紀の後半に、南鮮の新羅、北鮮の高句麗が次第に強大化してきて、百済や任那加羅はつねに両者の圧迫によって弱体化されてきた。それで百済は高句麗や新羅に対抗するため、倭政権と友好関係を結ぶ努力を重ね、倭政権もまたその要求に応じて援助をつづけていた。そのため百済は、五一二年に、全羅南道の四半部という広大な土地にあたる任那の、上〓〓・下〓〓・娑陀・牟婁の四県を要求し、大伴大連金村はこの百済の要求を入れて、割譲を許した。百済は図にのって翌年更に己〓・帯沙の地までも割譲させるのに成功した。一方新羅は倭政権を介しての百済の任那の地の取得を黙視せず、対抗策として任那諸地域を侵略した。そのため南鮮における倭政権の権益は年と共にうしなわれ、任那人の反感をかうばかりであった。こうして六世紀を迎えると、大和では倭政権に代って誕生した新たな継体王朝-大倭政権のもとで、対外政策の失敗が目立ち、国内でも動揺がおきた。新羅は大倭政権の最も大切な朝鮮経営の要地であった金官国・喙・己呑・卓淳等の地を、五三二年に併合してしまった。
このような朝鮮経略における危機と、失敗の情況下において、朝鮮での失地回復と、防衛戦費の負担の補充のため、成立間もない大倭政権は成立基盤の強化へと目を向けなければならなかった。六世紀に入ると部の構成に一つの変化が現われてきた。それは有力な地方豪族達が伴造として管掌していた部の他に、朝鮮の動乱によって日本に逃れてきた、百済からの帰化技術者たちを、新たに編成して、帰化人をその伴造とすることによって、天皇が自らの官司として直属する部を所有することになった。そしてまた前世紀における東国の服属によって、東国の豪族の子弟を天皇の親衛軍としての舎人部に編成することであった。すなわち武蔵では、宣化天皇の時代に設置された檜隈舎人部が那珂郡におかれたらしいことがわかっている。東国は西国に比して、政治的勢力の成長がおくれていたため、豪族の自主的な意志の成長が弱かったから、統御し易かったのである。
しかしこの大倭政権が、権力の集中化をおし進めることは、当然地方豪族の抵抗をよびおこした筈である。その在地豪族と大倭政権との紛争のいくつかが歴史に残っている。その一つは五二七年の朝鮮出兵に端を発する、筑紫国造磐井の乱である。筑紫国造は北九州の全土の反抗豪族を統合して、大倭政権に対して反乱を起した。この内乱は長期にわたり、漸く物部大連麁鹿火の出陣によって鎮定されたが、このような直接大倭政権に立向う反乱という形をとらないで、地域的な在地勢力内での主権の抗争という形をとってそれに巧みに大倭政権が干渉して、統合していくという紛争が多くみられるのである。武蔵国においてもその種の紛争が発生していた。いわゆる国造の出現についてはなお諸説が行なわれて定説がないが、これは大倭政権によって、在地の豪族にあたえられた称号であり、七世紀にそれが一時制度化されたのかも知れない。そして大化改新によってその制度が改廃されたと言われているが、西国や東国などの、大和から遠く隔てた辺境の地には筑紫国造とか、出雲国造とか、あるいは武蔵国造のように、後の律令制下の一国を支配するような大国造が存在したようである。その比較的大きな勢力を持していたと思われる東国の中の、武蔵国造の一族の間に、主導権争奪のための紛争が生じて、ついに東国の反乱にまで発展しそうな形勢になったのである。そしてそこに大倭政権が目をつけ、紛争鎮定のために干渉するに至ったのである。