二 武蔵国造の紛争

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 『日本書紀』の「安閑紀」元年閏一二月の条をみると、武蔵国の国造の一族が、その主導権を争って紛争を起こしたという記事が記されている。これは中央の数少ない東国に関する記載の中で、特に東国史、ひいては武蔵国の歴史を考える上で、きわめて重要なものであるので、原文のままこの事件についての記述を掲げておこう。
 武蔵国造笠原直使主与同族小杵。相争国造。使主。小杵皆名也。経年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求援於上毛野君小熊。而謀殺使主。使主覚之走出。詣京言状。朝庭臨断。以使主為国造。而珠小杵。国造使主。悚憙交懐。不能黙已。謹為国家。奉置横渟。橘花。多氷。倉樔。四処屯倉。
すなわち、この事件の顛末は、安閑天皇の元年に大倭政権が、武蔵国に四カ所の屯倉を設置することができた所以を説明するためにとられた記述と言うことができるのであるが、それによって当時の武蔵国の状況を察知することが可能になる意味においても重要である。
 安閑天皇の元年というのは、この年は、「太歳甲寅(きのえとら)。」とあるので、五三四年にあたる。その頃、武蔵国は、雄略天皇時代の東国遠征の結果、相模国を統合した大倭政権の圧力が、南から迫り、やがてはその勢力に服属せざるを得ない状況になっていた。大倭政権は、そこでまず武蔵国の有力豪族であった笠原氏に、直という姓をあたえ、その族長を国造とすることで、在地勢力を懐柔して服属させ、間接支配体制をおしすすめようとした。ところがその国造職をめぐって笠原直一族の間に内紛がおき、特に一族の使主(おみ)と小杵(おき)との間で主導権争いがおこり、長い間決着がつかなかった。武蔵国造については、『日本書紀』の「神代紀」や、『旧事紀』の「国造本紀」によると、出雲国造出雲臣と同族で、天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔とされており、その系譜にみる兄多毛比命(えたもひのみこと)が旡邪志(むさし)国造になったとあるが、そうすると笠原直というのは、この系譜の中の人物であって、古い出雲族系の東国への移住集団であったのかも知れない。笠原というのは、『和名抄』に、武蔵国埼玉郡笠原郷と見える、現在の埼玉県鴻巣市笠原附近の地に因んだ氏名(うじめい)であろう。とすると笠原直使主は、北武蔵に居住していた豪族であったと思われる。行田市の附近には、武蔵国最大といわれる埼玉古墳群が存在しているが、この古墳群は、六世紀までに見られる南武蔵の多摩川中流域の古墳群にかわって、六世紀以後に築造された後期古墳群であることから、ここに笠原直一族の、武蔵国造の勢力基盤が存在していたとみても差支えなさそうである。ところが、この笠原直使主が国造職につくか、それに対抗して同族の小杵がつくかで争いが生じたというのである。小杵は生れつき性質が阻くして(気性がはげしいこと)、心は高慢で従順でなかった。そこで小杵は使主を倒して自ら国造になろうと思って、ひそかに武蔵国の北方後背に控えた、一大独立国の観を呈していた毛野国の力を借りて使主を討とうと企て、援助を毛野国の首長、上毛野君小熊(かみつけぬのきみおぐま)に求めた。そこで使主も独力では敵し難いので一旦逃れて、大和の大倭政権に頼ってその援助をこうた。そこで武蔵国の紛争は、一国の内紛から発展して、東国の主権を保守しようとする毛野国と、東国を服属させることを念願とする大倭政権との抗争という形に展開をしたことになる。大倭政権は、この使主の救援をうけ入れて、自分に敵対する小杵と、それを背後から援護する毛野国とに討伐の鉾を向け、使主を正式に武蔵国造に任命して小杵を誅殺して、武蔵国の内紛を鎮定することができたというのである。したがって武蔵国にのびてきた北関東の毛野国の勢力進出は、小杵の敗北によって挫折して、毛野国は北方に孤立し、南関東の武蔵国には、以前よりも、より一層強力な大倭政権の東国支配のくさびが打込まれることになった。それは、改めて大倭政権より、武蔵国造に任ぜられた使主が、悚(かしこま)って大倭政権の恩に感じて、大倭政権の疵護に対して、武蔵国の四処の屯倉を奉ったということで明らかである。
 この屯倉四ヶ所については、それがどこかという比定についてなお諸説が分れているが、おおよそそれらが南武蔵の地域内に定められたことは間違いないので、一応の比定ができる。
(一) 横渟(よこぬ)屯倉 『和名抄』に言う武蔵国横見郡。現在の埼玉県比企郡吉見村から、東村山市北部の地とする説があるが、南多摩郡の「多摩の横野(よこぬ)」と称される日野市から八王子市にかけての、浅川流域の低地帯に比定する説もある。
(二) 橘花(たちばな)屯倉 『和名抄』に言う武蔵国橘樹郡御宅(みやけ)の郷で、今日の川崎市住吉、横浜市日吉附近に比定される。
(三) 多氷(おほひ・たま)屯倉 武蔵国久良郡大井郷に比定する『書紀集解』に発する説と、『日本書紀通証』・『日本書紀通釈』の、武蔵国多磨郡に比定する説に発する見解がある。前者は多氷を「オホヒ」と訓むことにより、後者は「氷」を「末」の誤記とし、「多末」として「タマ」と訓むことによる。多磨郡説の方が信憑性が高いので、多磨郡に比定したい。
(四) 倉樔屯倉 『通証』や『通釈』が、「樔」は「樹」の誤記で「クラキ」と訓み、『和名抄』に言う武蔵国久良(岐)郡であり、現在の横浜市域をさすとする。
 これらの屯倉比定説はともあれ、武蔵国造が、安閑元年に笠原直使主に決定されたということと共に、武蔵国の後の四郡に相当するような地域が、大倭政権の直轄領として編成されたところに重要な意味がある。この四屯倉のうち三つは、ほぼ南武蔵の多摩川流域の下流から中流にわたる広域で、武蔵国の中枢をなす地域であることに注目しなければならない。そして使主が奉ったというこの四屯倉は、笠原郷を中心として北武蔵に勢力基盤をもっていた使主に対し、南武蔵に基盤をもっていた小杵の領有していた地域とみることができる。小杵が誅殺されたので、その領有地が使主からそのまま大倭政権に委譲されたものとして受け取られるのである。そしてこの武蔵国造の内紛に乗じて、大倭政権は巧妙に、かつ確実に武蔵国への支配体制を固めることができたのであった。そしてこのことは、やがて大倭政権が東国全体を完全に支配し得る、きわめて有力な前進基地を確保したことを意味するのであった。