三 毛野国の服属と大倭政権の東国支配

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 武蔵国造の内紛に乗じて、南武蔵にまで進出した大倭政権は、更にそこを基地として、それまで長く独立国的勢力を持して君臨してきた北関東の毛野国と対決しなければならなかった。小杵に組して大倭政権に対抗した毛野国は、小杵の滅亡によって北関東に後退せざるを得なくなり、大倭政権の進出の脅威を直接うけとめる立場になった。上野国と下野国とを合わせた北関東の広大な地域を領有していた毛野国の首長は上毛野君である。上毛野君は、豊城入彦(とよきいりひこ)命の後裔とされる上野国を基盤とした大豪族であった。毛野とは毛人の国であり、毛人とは蝦夷と同じく古代東国の住民をさしているから、東国の本拠地とも目される。その首長が君姓であることは、それが長い間大倭政権に対し強力な反抗をつづけていた在地の古い大豪族であったことを意味する。君姓氏族というのは東国や九州などの辺境の地帯に多く見られ、いずれも古くからの在地豪族として、容易に中央の政権と妥協せず、独立国的存在を維持していた豪族であって、服属後にそうした氏族に中央から授けられた姓であるから、上毛野君の場合もその例に洩れなかったであろう。
 小杵と連合して、大倭政権との抗争に敗れた上毛野君小熊も、それによって何等かの影響をうけたと思われる。そして結果的には毛野国も大倭政権に服属したのであるが、その過程については古い歴史の史料に明らかではない。しかし大倭政権と毛野国との交渉を示す若干の記載があって、それを段階的にとらえることによって、毛野国の服属が大体六世紀中葉において完成されたことが推定できるのである。
 小杵誅殺の翌年、安閑二(五三五)年五月、早くも上毛野国に緑野屯倉が設定されたという。緑野は上野国多胡碑に、上野国緑野郡の名が記されており、『和名抄』の緑野郡にあたるから、群馬県多野郡西部から、藤岡市附近の地で、屯倉のあったのは、藤岡市緑野・倉屋敷の辺であろうといわれる。この屯倉の設置は大倭政権が毛野国へ打ちこんだ、第一のくさびであった。
 次いで敏達天皇の一〇(五八一)年閏二月には、大毛人で蝦夷の魁帥綾糟が帰順したという記載が、『日本書紀』に見える。この頃蝦夷数千人の反乱があり、大倭政権はその魁帥であった綾糟を大和へ召出して、反乱をおこし、反抗する悪者は殺す旨を伝達した。綾糟はおそれて奈良県の初瀬川の中流に下り、三輪山に面して、初瀬川の水をすすり、三輪山の神に対して誓盟を立てたという。この伝説的物語は、すなわち蝦夷の反乱が鎮定されたことを示すものであるが、この時の蝦夷の魁帥綾糟は大毛人であるというから、蝦夷を毛人におきかえれば、毛野国のことになる。したがって毛野国の首長上毛野君の反乱を示す物語だと解されるわけで、この頃に大体毛野国がその長い伝統的な独立性を失ない、大倭政権に服属したのではないかと思う。そうすれば、武蔵国造の内紛鎮定の後四八年にして、毛野国が完全に大倭政権に服属したことになる。このことは更に舒明天皇九(六三七)年三月の上毛野君形名(かたな)の蝦夷征伐の物語によって裏付けされる。
 すなわち、舒明天皇の九年に蝦夷が反乱した。この七世紀初めの蝦夷の反乱というのは、すでに関東地方での蝦夷の反乱を意味するのではなく、更に北方の、東北地方の蝦夷反乱をさしている。そこで大和では、大仁(だいにん)上毛野君形名(かたな)を将軍として、蝦夷征伐にあたらせたという。この遠征に際し、形名は蝦夷の攻撃に破れて、防塁に逃げかえった。蝦夷は軍を進めて形名の陣地を包囲した。そこで形名は夜陰に乗じて包囲をおかして遁走しようと企てて、その作戦を練った。その時形名の妻が、「いまいましいことよ。蝦夷のために敗れて殺されることは。」と言い、形名を励まして、「祖先の名をはずかしめるならば、きっと後の世の人びとの笑いぐさになるであろう。」と、夫に酒を飲ませて、自分で夫の剣をはき、女の従者数十人を集めて十張の弓をはり、弦を鳴らさせた。それを聞いて蝦夷は、まだ形名の軍兵が沢山いるものと思い、包囲を解いて退いた。そこで形名はその機をつかんで、兵力を結集して一挙に追撃戦を展開して、敗走する蝦夷を追討して完敗させ、悉く捕虜にすることができたというのである。
 この「舒明紀」の記述に出てくる上毛野君形名が、「安閑紀」に出ている上毛野君小熊と同じ上毛野君族の首長であることは想像に難くないが、小熊の時代から形名の時代まで、凡そ一世紀以上の時代がたっている。そしてその中間に現われる大毛人の魁帥綾糟というのが、上毛野君綾糟のことであったとすれば、上毛野君はこの百年間に、小熊-綾糟-形名とつながり、小熊の段階では、北関東の大豪族として、武蔵国の方までその勢力を及ぼしていた、あたかも東国の中の一大独立国の首長であったことを示しているが、それから約半世紀の間に、徐々にその勢力を強化し、武蔵国に支配権を扶植してきた大倭政権の圧力に屈して綾糟の時に、ついに独立国としての毛野国は、大倭政権に服属してしまった。そして綾糟服属後また半世紀たった頃の上毛野君氏の族長形名は、最早往時の上毛野君の族長ではなく、彼はすでに大和国家の上級官司として、「大仁」という官位を有し、武官として蝦夷征伐の遠征軍を指揮する将軍として姿を現わしてくるのである。「大仁」というのは推古天皇の時、聖徳太子によって定められた冠位一二階の中の第三位を占める上級官位であるから、最早七世紀になると、東国全域が完全に大和政権の支配下に入り、在地の有力豪族はすでに大和国家の官司となったり、あるいは在地の地方官司となっていたことを明瞭に示している。
 東国の勢力の最大の拠点であり、最後の独立国として、大和勢力と対決の構えを維持してきた毛野国も、ついに六世紀の後期に至って大倭政権に屈服してしまい、七世紀には毛野国をはじめ関東八州全域が、完全に大和国家の支配下に入っていた。毛野国におけるこのような変貌は、それよりも古くから大倭政権の支配下に入っていた南関東の武蔵国においても、より強力な大和国家の支配下におさえられていたことは想像に難くない。そして七世紀の中葉の大化の改新以後、東国は律令制による新しい統制を強力に受け入れる方向にむかって進んでいったのである。いずれにしても大倭政権や、それを継承してより強力な大和中心の集権国家へと発展していく大和国家にとって、東国が経済的にも、軍事的にも、きわめて重要な基盤となっていたことは確かな事実である。