一 蘇我氏の抬頭

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小瓶(東耕地遺跡出土)


直刀(大神町杉崎世三郎氏所蔵)

 西暦第六世紀に入ってからは、中央では葛城(かつらぎ)・平群(へぐり)・大伴(おおとも)の有力豪族がつぎつぎに失脚し、蘇我(そが)・物部(もののべ)の二氏が権力を握っていた。やがてこの二氏は、政策上、とりわけ朝鮮半島に対する政策上の対立から、深刻な政治的権力争いを展開した。
 かつて朝鮮の任那(みまな)には日本府が置かれていたが、継体六(五一二)年、大伴金村の失策により、高句麗(こうくり)の領域拡張の勢いに押されてしだいに南下してきた百済(くだら)に任那四県を割譲し、さらに欽明二四(五六二)年には、新羅(しらぎ)によってついに任那日本府が滅され、日本は朝鮮半島から撤退せざるをえなくなった。この対朝鮮政策の混乱・動揺の時期にあたり、蘇我氏と物部氏の政治姿勢は、まったく対照的であった。
 以前から、その配下に組み入れるなど積極的に帰化人をとりいれてきた蘇我氏は、彼らを管理者として屯倉(みやけ)を設置し、国内の支配体制を再建強化しようとした。一方、古い伝統を重んじ何事にも消極的・保守的な物部氏は、このような蘇我氏に同調できず、対立はますます激化していった。そして、このような対立のさなかに、百済の聖明王により仏教が公伝された(註一)。
 それまでも帰化人のあいだでは、私的に仏教が伝えられ信仰されていたが、公伝以後は国家の統一のために、思想的に利用しようとする動きが、蘇我氏を中心に進められた。この崇仏論に対して、物部氏は排仏論を唱えたが、結局、大部分の皇族・豪族の支援を受けた蘇我馬子が、物部守屋を攻め滅ぼし、ここに蘇我氏の独裁体制が確立された。