二 聖徳太子の政治改革

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 大敵物部氏を滅ぼした蘇我氏の権力は、天皇家をもしのぐ勢いであった。崇峻五(五九二)年に起きた蘇我馬子による崇峻天皇暗殺事件は、このような状勢を物語るものである。この崇峻天皇のあとに、蘇我氏の外孫にあたり、また敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)すなわち推古天皇が、わが国最初の女帝として皇位についた。そして、用明天皇の遺子聖徳太子が、その摂政として国政をつかさどることになった。太子もまた蘇我氏とは強い血縁関係にあったが、その政治における理想は、むしろ天皇家としての自覚が強く、天皇権力による律令国家の確立という点にあったと思われる。太子は、その政治理想の実現のために、蘇我氏を抑制しつつ協調する妥協的な態度をとりながら、推古三〇(六二二)年に没するまでの三〇年間にわたって活躍を続けた、偉大な政治家であった。
 仏教理念を基調とした太子の政治改革は、内政・外交・宗教・文化の多方面において示された。まず十二階の冠位や十七条憲法(註二)を制定し、さらに暦日の実施を決め、あるいは遣隋使の派遣における自主対等の外交をめざし、また大陸文化を積極的にとりいれるなど、はなばなしい活躍ぶりであった。とりわけ、国史を編纂し、そのなかで初めて天皇の呼称を用いて従来の大王と区別したことは、重要な意義を有するものである。
 このように太子によって志向された、古代的天皇制の完全実施と、中央集権的律令制における法治国家体制の施行ではあったが、太子が亡くなると、再び蘇我氏専権のきざしが見えはじめてきた。蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子は大宮殿や陵墓を造営し、皇権確立の方向を妨げて、自ら権勢をほしいままにしようとした。
 しかし、太子によって派遣された留学生や学問僧たち(註三)が唐の律令政治体制を体験して帰朝すると、彼らと中臣鎌足(なかとみのかまたり)や中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)ら反蘇我勢力とが結びついて、大化元(六四五)年六月に、ついに蘇我蝦夷・入鹿父子が打ち滅ぼされ、いわゆる大化改新のクーデターが断行された。