四 東国国司の派遣

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 大化元(六四五)年八月に、すでに東国国司発遣の記事が見られ、さらに大化二(六四六)年正月の改新の詔では、東方八国への国司任命が明らかにされている。
 その八国については、毛野(上野・下野)・常陸・総(上総・下総・安房)・信濃・武蔵・遠駿豆甲・三河という、東海道の三河以東、東山道の信濃以東であろうとする説(註五)と、越・信濃・甲斐・駿河・毛野(武蔵を含む)・総・相模・常陸をさすとする説(註六)などがあるが、『常陸国風土記』の巻頭に、
  国郡の旧事を問うに、古老の答えていわく、古は、相模国足柄岳坂より以東の諸県を、惣じて我姫(あづま)国と称う。是の当時、常陸と言わず。唯、新治(にいばり)・筑波(つくば)・茨城(うばらぎ)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)の国と称い、各造・別(わけ)を遣わして検校せしむ。其の後、難波の長柄(ながら)の豊前(とよさき)の大宮に臨軒(あめのしたしろ)しめしし天皇の世に至りて、高向(たかむこ)臣・中臣幡織田(はとりだ)連等を遣わして、坂より以東の国を惣領せしむ。時に、我姫の道、分れて八国となり、常陸国は其の一に居れり。
 つまり、足柄坂より東の地が古くから「あづまの国」と呼ばれていて、孝徳天皇の治世に至ってこの地域が分かれて八国になったと記されることから、いわゆる坂東の地に国司の派遣された八国があったことはまちがいないであろう。そして、これらの国々に、国府を設置して国司を派遣し、地方政治の方針を指示したのである。
 しかし、これら八人の国司の任務がもつ意味を考えてみると、検断権を与えられず、また七カ月以内という短期間しか現地にいなかったこと、さらに、これら国司の下には、これまでの国造や県主という地方豪族のなかから任命された郡司が配置され、彼ら郡司が地方政治の実務にあたっていたことなどから、以後の令制下における国司の任務とは異なるものだったことがわかる。すなわち大化の新政権においては、中央集権化するために、従来の国造をとおしての支配から律令国家の国司をとおしての直接支配へと変える、その基礎をすえるという特殊な意味を、東国国司の派遣はもたされていたのである。
 補註
 一 『日本書紀』欽明一三(五五二)年一〇月条に「百済の聖明王、西部姫氏達率怒〓斯致契等(せいはうきしだちそちぬりしちけいら)を遣(まだ)して、釈迦仏の金銅像一体・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献る」と記されるのを、いわゆる仏教公伝と称するが、この五五二年説をとるのは『日本書紀』だけで、奈良時代の末以前にできた他の本はいずれもこの公伝を戊午年のこと、すなわち五三八年のことであると記している。
 二 このような法制が、太子によってなされたのではなく、のちの時代の『日本書紀』の編者などが太子に仮託して造作したものであるとする津田左右吉博士などの、十七条憲法太子制定否定説がある。
 三 彼らは、隋の滅亡や、唐の勃興とそれに続く律令政治体制の治世を、見聞し体験してきた者たちであった。
 四 当時までの東国を、天皇家直轄領とする見解に対しては反対意見もある。たとえば原島礼二氏(「古代東国と大和政権」『続日本紀研究』七-六~八)。
 五 井上光貞氏『日本古代国家の研究』参照。
 六 関晃氏「大化の東国国司について」『文化』二六-二・原島礼二氏前掲書参照。