前述のごとく、律令国家の新しい地方組織の基礎をまず東国に求めたということには、大和権力と東国との深い結びつきが想像される。
大化以前における中央勢力の東国への伸長は、有力氏族たちが、私的に、大和朝廷の宮廷組織や祭祀組織などの変改整備に即応させながら、地方豪族との特殊な関係を東国に扶植(ふしょく)拡張させ、そこに、新たに確固たる勢力の場を得るために行なわれていた。大和朝廷による東国への権力浸透も、このような状勢を背景にして積極的に行なわれ、まず子代・名代・屯倉をつぎつぎに設置して、その部民に地方豪族を組み入れることにより確実な基盤を作りあげていったのである。
しかし、中央での有力氏族による勢力争いや実権の交替は、やがて東国にも影響を及ぼしはじめた。すなわち大和権力の東国経営は、しだいに軍事的・経済的基盤を求めんがための性格を有するようになった。
かくして大化の改新が断行されると、まず東国においてその新政策が実施された。それはやはり、東国が政治上の新開地であり、しかも早くから皇室の直轄領であったという特殊性から、比較的容易にその政策をおしすすめることができると考えられたからであろう。そしてこのような特殊性における東国と皇室との結びつきは、六七二年に起こった壬申(じんしん)の乱で、いちはやくそれに目をつけた大海人(おおあま)皇子(のち天武天皇)が大友皇子を破る基盤としてもあらわれ、古代天皇制の確立にひと役かうことになるのである。