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武蔵国分寺跡

 前述のごとく、六世紀半ばに起こった大化の改新により律令制度が実施されると、地方制度にも大きな変化がもたらされた。従来の国造制にかわって新たに国郡制が定められ、国司・郡司に任命された官僚たちによる中央集権的な政治が行なわれるようになったのである。そして大化二(六四六)年に、東方八国に国司を任命派遣する詔が下されたが、その八国のなかに、昭島市の属する武蔵国も含まれていた。
 この武蔵国がつくられたのはいつなのか、明らかにする史料を見ることはできないが、『日本書紀』によると、大化二(六四六)年八月の詔勅に、
  国々の〓堺を観て、或は書し或は図して、持ち来りて示し奉れ。国県の名は、来らん時に定めん。
とあり、また、天武一三(六八五)年五月の条に、百済の帰化人男女あわせて二三人を武蔵国に置いたという記事が見られる。これらの記事により、大化の改新後まもないころに、武蔵国は成立したと推察できよう。
 またこの〝武蔵〟という二字は、和銅六(七一三)年五月の、諸国郡郷の名を好字の二字をもって記せよという詔にさいして、以前から称されていた「ムサシ」にあてたものと思われる。ただしこの「ムサシ」は、『万葉集』に牟射志、『古事記』には牟邪志、『国造本紀』には旡邪志・胸刺とあることから、もともとはムザシと濁音であったものが、のちにムサシと清音で呼ばれるようになったものと思われる。
 ところで、この「ムサシ」という名称の語源については、近世以降、賀茂真淵・本居宣長をはじめとする多くの諸説があり、そのどれを適当とするか、いちがいには決めがたい。ここでは、それらのいくつかを紹介するにとどめておく。