二 武蔵国の構造

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 『日本書紀』安閑紀元(五三四)年の条によると、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四屯倉を、武蔵国造使生(おみ)が朝廷に献上したという。これらの地は、横渟は横野で多摩横山地方、橘花は橘樹郡、多氷は多米または多末の誤記で多磨郡、倉樔は倉樹の誤記で久良来郡であろうとされている。これを始めとして、武蔵国は多摩川流域を中心に徐々に領域が拡大され、やがて天武天皇の治世において、東北は利根川を境にして毛野国と、西は甲武の山脈を境にして甲斐国と、そして南は多摩丘陵をもって相模国と対する大国として、その国境がほぼ確定された。
 武蔵国の国府は、多磨郡の府中に置かれたとみるのが通説となっており、その国衙(こくが)(律令制下の諸国の政庁)は、武蔵惣社である大国魂神社の付近にあったと思われる。高安寺・高倉・京所・御殿地などに比定する諸説があるが、まだ確立されるには致っていない。
 律令制下における武蔵国へは、行政官として、国司が中央から派遣されていた。それは、守・介・大椽・少椽・大目・少目の一名ずつ六名で組織され、その下に史生三名・国博士・国医師などの官司が加わっていた。この国司の任務をみると、守は一国の統轄にあたる最高等官で、行政全般はもちろんのこと兵馬の権を掌り、介は守を助けてその不在のおりは職務を代行した。椽は国内の非違を検察し司法する事務にたずさわり、目は公文を上抄したり読申したりする書記官であった。また史生はこれら四等官の下にあって、公文を繕写する写字生あるいは筆工のごときものであった。
 武蔵の国の行政は、このような国司によって集権的に整えられていたが、さらに、下部組織として郡と里(郷)とに細分されていた(註四)。
 ところで、承平年間(九三一-九三七)に成立した『和名抄』によると、武蔵国は久良(くらき)・多磨(たま)・橘樹(たちばな)・都筑(つづき)・荏原(えはら)・豊島(としま)・足立(あだち)・新座(にいくら)・入間(いるま)・高麗(こま)・比企(ひき)・横見(よこみ)・崎玉(さきたま)・大里(おおさと)・男衾(おふすま)・幡羅(はら)・榛沢(はりさわ)・那珂(なか)・児玉(こたま)・賀美(かみ)・秩父(ちちぶ)の二一郡を有していたことがわかる。このうち昭島の属していた多磨郡について、以下見てみよう。

武蔵国の郡名
(今井啓一氏による)