多磨郡は、今日では多摩郡と書くが、古文献では「マ」にいろいろな文字があてられている。『万葉集』では「多麻河泊」のように「麻」と記され、『延喜式』では「磨」と「麻」を併用、『日本霊異記』『東鑑(あづまかがみ)』では「磨」、『和名抄』では「多磨」と書いて「多婆(たば)」と訓じている。また『風土記』では「摩」、『続日本後記』では「摩」と「磨」を併用している。この多磨-「タマ」の語源であるが、丹波・丹婆・多婆・田波・田場などと書かれる「タバ」の転訛したものと考えられている。「タバ」とは古朝鮮語で峠を意味するもので、さらにこの語は、ウラル・アルタイ語系の言語に共通して見られる。満州語では「タバカ」蒙古語では「タバ」「タバカ」となり、日本に入って「タバ」「タンバ」となる。多摩川の上流、山梨県境近くに丹波山村があり、このあたりを流れるときは丹波川と呼ばれることや、氷川と青梅のちょうど中間に位置する古里村の大丹波・小丹波の名、また山陰の丹波国の自然地形などを考えると、この「丹波」という地名が峠を示すものであると考えてさしつかえないであろう。古代における交通路のうち、武蔵から甲斐・信濃へ抜ける小仏峠越えの甲州街道に対して、いまひとつ、多摩川本流をさかのぼり、丹波山峠から大菩薩峠を経て甲州に至る裏街道があった。この多摩川の渓谷にそって、甲信地方から武蔵に入ってきた人びとが、彼らの越えてきた峠の名をだんだんと下流地域に伝え広め、やがて固有名詞化して、ついにはこの川全流域の地名に拡大してしまったのであろう。
『和名抄』には、多磨郡の郷として、小川・川口・小楊・小野・新田・小島・海田・石津・狛江・勢多の一〇郷が記されているが、これは武蔵国の郡のうち最多の郷数である。これは武蔵国ではこの多磨郡が国衙の所在地であり、武蔵国のなかでは比較的早く開発され、多磨郡の地域はきわめて広大であったことを示すものであろう。すでに天平時代には、公的ではないが、当時の人びとは日常生活の便宜上、私的区分として多磨郡を二分し、しかもそれが一般に通用していたと思われる。すなわち武蔵国分寺発掘の文字瓦によると、玉・下多・多・玉・多上と記されていて、当時、私的には多磨郡を上多磨郡と下多磨郡とに区分していたことがわかる。これはおそらく、多磨郡内を貫流する多摩川の流路にそって、国府を中心に、それより上流を上多磨とし、下流を下多磨としたのであろう。地方行政上公式に多磨郡が多東郡と多西郡とに分けられたのは、ようやく鎌倉時代になってからのことであり、いつの時代にもある行政上の施策と民衆の日常生活上の便宜とにおける矛盾を表徴していて興味深い。
武蔵国の郡郷名一覧(『和名抄』による)
かくして武蔵国は、国衙の置かれた多磨郡を中心として、しだいに整備拡張されていったのである。
補註
一 武蔵国の牧が制度化されるのは、「ムサシ」という地名が成立したときよりもはるかに後のことであるから、この説は時間的に矛盾することになる。
二 もともとの「旡邪」の意味が明らかにされないので、説としては弱いと考えられる。
三 東国に朝鮮帰化人が配置されるのは、奈良朝以降のことであるので、この説も、「ムサシ」の語源とするには時間的に無理がある。
四 大化改新のさいの村落制度では、五〇戸を単位として里が編成され、さらにその里をいくつか統合して郡が置かれていた。そして、このような一里五〇戸に編成された農民は、「編戸の民」あるいは「調庸の民」と呼ばれて、律令体制のなかに掌握されていったのである。これを条里制というが、やがて八世紀初頭に至って郷里制へ発展していくのである。なお、この律令体制下の村落については、第三章第二節において詳述する。