一 国分寺の建立

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 律令時代における仏教は、国家仏教としての性質を有していた。すなわち律令国家は、仏教の教義・哲理を普及することよりも、国家を保護し国家に繁栄をもたらすという、いわゆる鎮護国家の思想のもとに、仏教を政策的に保護育成した。そしてこのような背景のもとに、国分寺・国分尼寺が全国に建立されることになったのである。とりわけ天平年間は天然痘などの疫病が猛威をふるい、これに凶作による飢餓が重なったため、社会全体が不安につつまれ、仏の加護によって救いを得ようとする気持ちが強まっていた。こうした緊迫した世情のなかで、天平一三(七四一)年三月、聖武天皇によって国分寺建立の詔が発せられた。
 すでに天平九(七三七)年三月に「国ごとに釈迦仏像一躯(く)、挾侍(きようじ)菩薩二躯をつくり、また般若経一部を写せ」という詔が出され、ついで天平一二年六月にも、「国ごとに法華経十部を写させ、また七重塔を建て」させ、そのうえで天平一三年の国分寺・国分尼寺造営発願の詔が下されたのである。この詔の要旨は、天下諸国に僧寺(金光明(こんこうみょう)四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪(めつざい)之寺)を置かしめ、七重塔一区をつくり、金光明最勝王経と妙法蓮華経各一〇部をそなえよという、金光明四天王の加護による五穀豊饒と国家繁栄を祈願するものであった。
 はじめは、僧寺に水田一〇町、食封(じきふ)五〇戸、尼寺に水田一〇町が、国分寺造営の費用に充当するようにと施入され、漸次、寺地が拡張増大されたり、諸国の正税から国分寺料稲を分け与えられたりしたが、それでも各地の国分寺造営の工事は、なかなかはかどらなかったようである。天平一九(七四七)年には工事の進行をうながす詔勅が下され、さらに、天平勝宝八(七五六)年五月二日に聖武天皇が崩御されると、そのあとを嗣(つ)いだ孝謙天皇は、諸国に使者を派遣して、国分寺造営事業の進渉状況をまず巡察せしめ、そのうえで、翌年の聖武天皇の忌日までにはすべての工事を完了するよう命じている。
 このように、天平一三年以来、一五年の歳月をしてもなお国分寺造営の工事の進行ははかばかしくなかったが、私財の寄進を地方豪族や広く農民からも受けるなどして、どうにか奈良時代の末ごろまでには、各国の国分寺がだいたい建ちならんだものと思われる。

関東地方国分寺分布図
(滝口宏氏による)