三 武蔵国分寺の古瓦

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 わが国に造瓦技術が伝わったのは、崇峻天皇元(五八七)年、百済の瓦博士の来朝によるが、軒瓦に残る文様から、新羅・高句麗を加えた三韓系それぞれの技法が伝えられたと思われる。これら古瓦の収集は、江戸末期以来、多くの学者によって行なわれており、現在では相当な数にのぼっているが、当時の社会生活を知るうえで貴重な史料である。なかでも人名や郡郷名などが押印・押型・ヘラ書きにより付されている文字瓦は、文献の不足を補う史料として、調査する人びとの注目をひいている。
 昭和二六年に、石村亮司氏は、「秩父郡瓦長解」とヘラ書きされた文字瓦を紹介されたが、郡に瓦長が存在したこと、あるいは造瓦組織が編成されていたことを示唆するものとして注目された。
 武蔵国分寺の瓦のうち多磨郡のものを造った窯場として、
  南多摩郡稲城村大丸瓦谷戸の大丸窯趾
  埼玉県入間郡東金子村小谷田窯趾
  埼玉県入間郡東金子村新久窯趾
  埼玉県比企郡亀井村泉井窯趾
  埼玉県比企郡今宿村赤沼窯趾
の五カ所の存在が明らかにされている。これらの地は高麗郡に近く、また窯趾周辺にも帰化人が居住したと思われる古地名が多く見られることから、造瓦技術を有する帰化人が指導したと考えられる。
 また、大川清氏によると(註三)、武蔵国分寺の瓦窯趾所在地のほとんどは、国府から川越付近を北上して上州へ抜ける古代武蔵国の交通路に沿っており、おそらくこの道を通って瓦を運搬したのだろうとされている。
 このように武蔵国分寺の古瓦は、出土数の多さに加えて、文様や文字の研究の多大な成果により、史料としての価値が充分に認められるのである。
 補註
 一 礎石が示す大きさは間口一二二尺もあるが、これは後世に造補されたものであり、創建時には九五尺であったことが、発掘によって明らかにされている。
 二 元弘の内乱(一三三一年)のさいに、新田義貞によって焼かれたと伝える。
 三 大川清氏『武蔵国分寺古瓦博文字考』参照。