二 東歌の世界

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 『万葉集』の東歌には、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥の一三カ国の、雑歌(ぞうか)・相聞(そうもん)歌・譬喩(ひゆ)歌・挽歌が含まれ、そのうち武蔵に関する歌謡は、相聞歌九首と国土未勘中の武蔵のものと思われる六首の一五首である。
 武蔵国の多磨郡に直接関係のある東歌としてまずあげられるのは、つぎの歌であろう。
  多麻川に曝(さら)す手作(てづくり)さらさらに何そこの児のここだ愛(かな)しき
 多磨川の流域には今も各所に調布などの地名が残っているが、この歌からも、古くから手造りの麻布がこのあたりで織られ、その白布が河原などに晒してあった光景を想像することができる。
 また、武蔵国の東歌のうち武蔵野を詠んだ歌が六首あり、そのうち二首にウケラ(白朮)という、秋に白い花を咲かせるキク科の植物の名が見られる。
  恋しけは袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出(づ)なゆめ
  わが背子(せこ)を何(あ)どかも言わむ武蔵野のうけらが花の時無きものを
  (この歌の左註に「或本歌曰」として、いかにして恋ひばか妹(いも)に武蔵野のうけらが花の色に出ずあらむ)
 当時の武蔵野は、ただ広大な平原だったのではなく、まだ充分開拓されていない山林あるいは渓谷のあいだに、荒漠たる草原が横たわっていた。
  武蔵野の小岫(おぐき)が雉(きざし)立ち別れ去(い)にし宵より夫(せ)ろに逢わなうよ
 小岫とは小山の洞穴のことであろうと思われるが、武蔵野の人びとはこのような山林や原野に囲まれた自然のなかで、素朴な生活を送っていたのであろう。そして、この武蔵野の山林や草原をぬうようにして、府中市の国衙と各郡とを結ぶ交通路が開かれていた。
  入間道(いりまじ)の大家が原のいわい蔓(つら)引かばぬるぬる吾(わ)にな絶えそね
 入間道とは、武蔵国衙から北へ入間郡を経て上野に達する主要道のことをさし、大家が原とは、その入間道に沿って、入間郡の郡家(郡治所)のあったらしい郡家郷(今の入間川町付近)に近く、駅家の置かれていた大家郷(今の大家村付近)一帯のことと思われる。当時の武蔵野の交通(註二)を考えてみると、武蔵国は初め東山道に加えられ、中央からの文化も、この道に沿って毛野国から秩父・武蔵へと伝播してきたのであろう。やがて武蔵国が開発されるにつれて、相模から武蔵を経て、下総・上総へと結ぶ交通路が発達した。それとともに武蔵から上州へは、国府から北へ入間道を経て、川越・熊谷方面を通って伊勢崎にぬける道路が重要な交通路となっていった。
 しかし、『続日本後紀』に、
  天長十年五月丁酉。武蔵国言(もう)す。管内曠遠にして、行路難多し。公私の行旅、飢え病む者衆(おお)し。依りて多磨入間の両郡界に悲田処を置き、屋五宇を建つ。
と記されているように、国衙を遠ざかると行路には難が多く、公私の旅人が途中で飢えたり病み苦しむありさまであった。そこで、それらの人びとが休息したり養生したりできるように、家屋五棟の悲田処(註三)が、入間道に沿って建てられていたのである。
 東歌にいう入間道は、このような状況であった。
 交通路の発達にともない、中央との往来も盛んになったが、既述のごとく東歌をはぐくんできた東国の人びとの日常生活は、素朴で情調豊かなものであった。
  武蔵野に占えかた灼真実(やきまさて)にも告(の)らぬ君が名卜(うら)に出にけり
 武蔵野に生えているある種の植物の葉を焦がして、そこにあらわれる形象によってさまざまなことを占っていたらしい。口に出しては言わなかったあの人の名が、占いにあらわれてしまったと歌っているのである。
  埼玉(さきたま)の津に居(お)る船の風を疾(いた)み綱は絶ゆとも言(こと)な絶えそね
 埼玉の津に泊まっている船の綱がはげしい風のために切れてしまうことはあっても、私への言葉は絶やさないでほしい。
  夏麻(なつそ)引く宇奈比(うなひ)を指(さ)して飛ぶ鳥の到らむとそよ吾(あ)が下延(したは)えし
 宇奈比をめざして飛ぶ鳥が行きつくように、私もあなたのところへ行きつこうとひそかに思っていたのです。
 いずれも情感のこもった歌である。
 しかし、一見こうした平和で素朴な生活のなかにも、農民たちのあいだには、過重な使命をかけられた人びとがいた。西海のはてに派遣されていく防人たちであった。