三 防人歌の成立

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 防人の文字を文献に求めると、東国国司の詔と同じく、『日本書紀』には大化二(六四六)年の改新の詔に「其の二」として、
  初めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人・駅馬・伝馬を置き、鈴契を造り、山河を定めよ。
という記事が記されているが、ここにある防人がその文字の初めである。しかし、ここに記される防人は、東国の兵士をさすものであったかどうか明らかではなく、また、その役割や実際に編成されたのかどうかもはっきりしない。つぎに見られるのは、『日本書紀』天智三(六六四)年の条に、
  是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に、防を置き
と記される記事での「防(さきもり)」であるが、これには明確なその存在と役割とを見いだすことができる。というのは、このころ朝鮮半島へ勢力を伸ばしていた日本軍が、百済・高句麗を伐って朝鮮半島制圧をとげた唐・新羅の連合軍に白村江において敗れ、半島から完全に撤退させられたことが、前年の天智二(六六三)年の条に記されているからである。したがって、この連合軍がさらに進出して九州沿岸へ侵略してくるのを警戒して、その防衛策として天智三年の処置がとられたものと思われるのである。すなわち防人は、筑紫沿岸を防衛するための兵力であったわけである。
 これ以後、『日本書紀』や『続日本紀』に防人に関する記事が見られるが、それを順に追ってみると、天智三(六六四)年以来、大宰府に配されていた防人は、持統三(六八九)年から交替制とされ(持統紀三年二月の条)、彼らが任に赴くときには、道中、人も馬も疲労するほど困難なものであったと和銅六(七一三)年の記事に記されている(十月の条)。そして天平二(七三〇)年に諸国から防人を徴発するのをやめ(九月の条)、さらに同九(七三七)年にはすべての防人を自分の国に帰し、壱岐・対馬の警固には筑紫人をあてて、ここに防人を完全に廃止した(九月の条)。天平一四(七四二)年には大宰府も廃止されている(春正月の条)。ところが、三年後の天平一七(七四五)年には再び大宰府が設置され(六月の条)、それにともない新しい防人が遣わされていたこと、またこのときまで坂東の兵士がそれにあてられていたことを天平宝字元(七五七)年の記事は伝えている(閏八月の条)。『万葉集』巻二〇にとりあげられている防人歌は、これより二年前の天宝勝宝七年に、筑紫に遣わされた東国の防人らの歌である。さらに天平宝字三(七五九)年の記事では、今の防人はすぐには役に立たない、東国兵士が必要だという大宰府からの要請に対し、朝廷からは「東国の防人は衆議して充たさず」として却下されたことを記している(三月の条)。また同様に天平神護二(七六六)年の記事では、賊を防ぐためには勇健ではない筑紫の兵は役にたたない、東国の兵が必要であるから、もとのように東国防人を配してほしいという要請に対し、東国では陸奥城柵の修理に労力を費やしているからと再び却下されたことが記されている(四月の条)。
 以上の記事から、天平宝字三(七五九)年以前の防人には東国兵士があてられていたことがわかるのであるが、このように、東国の兵士がはるばる西国の防備の任につかわされ、しかも情勢不安のさいにはその派遣が強く要望されたのは、東国兵士たちが勇猛果敢であるからと一般に言われるが、そこには東国と大和権力との深い結びつきが感じられるのである。
 東国は、屯倉が設置されて以後、皇室の勢力の基盤となっていた。これは、山背大兄王が蘇我氏に襲われたときに三輪文屋君が、
  東国に詣(いた)りて、乳部(みぶ)を以て本(もと)として、師(いくさ)を興(おこ)して還りて戦わむ。其の勝たむこと必(かなら)じ(『日本書記』皇極二年十一月条)
とすすめた件や、とくに壬申の乱(六七二年)のとき、大海人皇子(のち天武天皇)側が東国兵士を動員し、その活躍が重要な勝因となった件などからもうかがうことができる。
 そして、これら防人に召された兵士たちは、それぞれの家郷の地で父母・兄弟・妻子と別れを惜しみつつ、西海の防備に赴いていった。このとき歌われたのが防人歌なのである。