『万葉集』巻二〇の防人歌は、遠江・駿河・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の一〇カ国の歌を含み、そのうち武蔵国の住民が詠んだ歌は一二首を数える。防人自身の歌をはじめ、それを見送る妻や父が詠んだ歌も含まれ、別れを惜しむ家族の真情に彩られている。
白玉(しらたま)を手に取り持(も)して見るのすも家なる妹(いも)をまた見てももや 荏原郡主帳物部歳徳
家ろには葦火焚(あしぶた)けども住み好(よ)けを筑紫に到りて恋しけもはも 橘樹郡上丁物部真根
家に置いてきた妻にまた会えるだろうか、自分の家の貧しささえも筑紫に行ったら恋しくなるのではないか、と旅出った夫が不安に思えば、
枕刀(まくらたし)腰に取り佩(は)き真愛(まかな)しき背(せ)ろがめき来(こ)む月の知らなく 那珂郡上丁檜前舎人石前妻大伴真足女
赤駒(あかごま)を山野(やまの)に放(はが)し捕(と)りかにて多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ 豊島郡上丁椋椅部荒虫妻宇遅部黒女
色深く背(せ)なが衣は染めましを御(み)坂たばらばま清(さや)かに見む 物部刀自売
妻は別れたばかりの夫をもう待ちこがれ、また旅路の難を案じ、限りない惜別の情を歌いこむ。そして、
草枕旅行く夫(せ)なが丸寝(まるね)せば家なるわれは紐解かず寝む 椋椅刀自売
草枕旅の丸寝の紐絶えば吾(あ)が手と付けろこれの針持(はるも)し 椋椅部弟女
わが背(せ)なを筑紫へ遣(や)りて愛(うつく)しみ帯は解かななあやにかも寝も 服部呰女
夫の身を案じながら、夫と同じ苦しみを自らも味わって、この気持ちが旅さきの夫にも必ず通じていると信じ、そして一沫の不安を慰さめる。
わが門(かど)の片山椿(かたやまつばき)まこと汝(なれ)わが手触れなな土に落ちもかも 荏原郡上丁物部広足
その不安は家に残る妻ばかりではなく、征路にある夫のほうにもあった。自分が帰ってくるまで他の男とは逢わないでほしいと願う。そして、
わが行きの息衝(いきつ)くしかば足柄(あしがら)の峰延(は)ほ雲を見とと偲(しの)わね 都筑郡上丁服部於田
足柄の御坂(みさか)に立(た)して袖振らば家なる妹は清(さや)に見もかも 埼玉郡上丁藤原部等母麿
妻をなぐさめたり、ふと思い出したりしながら、足柄の坂を越えて難波津に赴き、ここで兵部少輔の閲兵を受けたのち防人司に引率されて、筑紫国大宰府に向かったのである。
このように防人歌は、住み慣れた東国の風土を離れ、人びとと別れる悲しみにあふれている。集団歌謡としてのどかで素朴な生活を歌う東歌の世界から引き離された防人の、嘆きと悲しみの歌である。そして、このような運命を余儀なくされた人びとにとって、故国への訣別にたえる方法は、皇御軍の一兵としての自覚を自らに強いることしかなかったのであろう。
大君の命畏(みことかしこ)み愛(うつく)しけ真子(まこ)が手離り島伝い行く 秩父郡助丁大伴部少歳
大君の命令を畏んでいとしい妻のもとから離れていくのである。
東国の人びとは、重役を課せられる宿命にたえようとし、その悲哀と苦悩を、素朴ながらも切々と防人歌に歌いこめたのである。
補註
一 巻一四の編纂目的は、尾崎栄一郎氏(「巻一四の編纂目的」『万葉集東歌論稿』)によると、
(一) 当時の皇朝文化に隔絶された地方の、粗野な民俗と言語への好奇から蒐集されたとする説(荷田春満『古今和歌集打聴』)
(二) 詩経国風に倣ったとする説(賀茂真淵『歌意考』)
(三) 朝廷が辺陬の民俗を知るための政治的意図による蒐集とする説(賀茂真淵『続万葉論』)
(四) 大歌所のために採集されたものとする説(折口信夫『古代研究』)。
などの説があるとされ、また、桜井満氏(「東歌の成立と麻績部の伝承」『国語と国文学』四六-一〇)によると、
(五) 東人が大嘗祭とか荷前貢進といった公の機会に奏する、風俗歌や東遊の歌詞として、歌舞所に伝えられたもの
(六) 東国出身の采女や舎人・兵衛などによって、同じく歌舞所ないしは内廷に伝来したもの
(七) 国府に提供されたものや官人によって採集されたもの
などにより蒐集・編纂されたと思われる。
二 武蔵国における交通路線は、第三章第三節で詳述。
三 悲田処は、国衙の介以下、少目以上の六人の官司が、各自に支給されていた公廨稲(くがいとう)の一部を農民に出挙(すいこ)として貸しつけ、その利息で経営されていた。それを後任者にも継承させるように、帳簿に記載する手続きがとられていたが、これは永久的な施設にしようとしたもので、それだけ当時の悲田処の利用価値と必要性があったとみられる。