古代日本の国家形成過程における帰化人の役割は、文化的移殖者としての、また産業的開拓者としての活躍などの面で無視することはできない。そして大化前代の帰化人、いわゆる新漢人(いまきのあやひと)などは、主に畿内(大和・山背・摂津・河内・和泉)や近江に集住し、特殊な職業集団(部)として中央政府と結びついていた。皇室や有力な氏族の多くは、帰化人たちを自分の配下に置いて包摂することにより、彼らの高度な知識や技術、あるいは労働力を活用し、自己勢力を増大していったのである。
七世紀に至って、朝鮮半島の経営をめぐる勢力争いが活発になり、唐と新羅の連合軍によって日本の救援水軍派遣にもかかわらず百済が亡ぼされ(六六三年)、ついで高句麗が滅亡した(六六八年)が、この前後に、亡命者として多数の帰化人が日本へ渡来した。『日本書紀』によれば、天智天皇四(六六五)年に百済の男女四〇〇人を近江国神前郡に、翌五年には百済の僧俗男女二千余人を東国に、また同八年には佐平余自信(さへいよじしん)・鬼室集斯(きしつしゅうし)をはじめとする男女七百余人を近江国蒲生郡に、それぞれ配している。
百済と高句麗からの帰化人渡来は、七世紀の後半まで続くが、新羅からの帰化人も、たびたび渡来したことが『続日本紀』天平宝字三(七五九)年九月条に記されている。
太宰府に勅す。頃年新羅帰化して舳艫絶えず。賦役の苦を規避して、遠く墳墓の郷を棄つ。ここに其の意を念うに、豈(あに)顧恋することなからんや、宜しく再三引問して、還らんことを情願する者は、糧を給いて放却すべし。
新羅は、古代日本との外交関係において、朝鮮半島の勢力争いで敵国ではあったが、むしろ地理的条件によって、大陸との交渉上の仲介地となり、接触は緊密であった。そのため、さきの記事のごとく、新羅国の政情が悪化して、重税にたえかねた人びとが、平安時代に至るまでわが国へ逃れてきたのである。