二 東国への移住

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 帰化人が多く東国へ配属されるようになったのは、一つには畿内や近江に収容しきれなくなったという理由が考えられる。あるいはまた、未墾地の開拓のために集団移住せしめたのかもしれない。畿内から遠く離れた東山道・東海道の未開地に彼らを集住させることにより、荒涼とした原野が広がり人は稀薄という状態の東国を開拓させ、古代国家の強化をはかったのであろう。『続日本紀』天平宝字二(七五八)年八月条に、
  帰化の新羅僧卅二人、尼二人、男一九人、女廿一人を、武蔵国の閑地に移す。是に於いて、始めて新羅郡を置く。
とあり、また「養老令」の戸令に、
  凡そ外蕃に没落して還ることを得た者、及び化外の人で帰化せし者は、所在の国郡が、衣類を給い、状を具さにして飛駅を発して申奏せよ。化外の人は、寛国に於いて貫に附して安置せよ。没落の人は旧貫に依れ。
とあり、閑地すなわち空閑地に移し、寛国すなわち広大な原野を有する国に安置すべきことが記されている。両記事とも未開地に対して帰化人を配したことを示すものである。また、これらにさきだつ『日本書紀』持統元(六八七)年三月および四月の条に、
  三月の乙丑の朔己卯、投化(まいおもむ)ける高麗(こまびと)五十六人を以て、常陸国に居(はべ)らしめ、田を賦(たま)い稟(かて)を受(たま)いて、生業(なりわい)に安からしむ。(中略)丙戌、投化ける新羅十四人を以て、下毛野国に居らしめ、田を賦い稟を受いて、生業に安からしむ。夏四月の甲午の朔癸卯、筑紫大宰、投化ける新羅の僧尼および百姓の男女二十二人を献(たてまつ)る。武蔵国に居らしめ、田を賦い稟を受いて、生業を安からしむ。
とあり、常陸・下毛野・武蔵の国のいずれの帰化人も、「田を賦い稟を受いて、生業に安からしむ」とされている。これは、農作業の始まる時季に、田や種籾など農料を与え、広大な関東の原野を帰化人たちに耕作させたのであろうと考えられる。
 こうして東国に多数の帰化人を配属した背景には、「養老令」の雑令の条に、
  凡そ蕃使の往還せむ大路の近側に当たり、当方の蕃人を置くこと、及び同色の奴婢を畜うることを得ず。亦伝馬子及び援夫等に宛てることを得ず。
と記されているごとく、いつ帰化人たちによってひき起こされるかわからない種々の問題を防ぐために、中央や韓地から遠く離すという意味も含めて、一定の土地を与えて労働に従事させ、屯倉の設置以来進められてきた東国の開拓をいっそう促進させるとともに、帰化人たちを律令制下に組み入れようとする意図が含まれていたのである。