化来(まいき)つる百済の僧及び俗(しろきぬ)、男女并せて二十三人、皆武蔵国に安置(はべら)しむ。
とあるのがその初めである。そして帰化人を安置するために郡が建てられたが、武蔵国には高麗郡と新羅郡が存在する。高麗郡は、『続日本紀』霊亀二(七一六)年五月条に、
駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以って、武蔵国に遷す。始めて高麗郡を置く。
とあるように、東国の七国から高麗人を集めて建郡された。この高麗郡は、現在、埼玉県入間郡に併合されているが、日高町と飯能市を含む地域に存していた。当時の高麗郡は、『和名抄』によると上総郷と高麗郷に分かれ、建郡のさいに、上総国から移された高麗人が居住したのが上総郷で、その他の高麗人が集住し高麗郡家が所在したのが高麗郷であったと思われる。中心には高麗神社が鎮座し、高麗姓を名のる宮司が代々世襲されて、今なお正系を保っている。この高麗家には、「高麗氏系図」一巻が今も伝えられ、その巻頭につぎのように記されている。
(巻頭虫蝕)之に因りて、従来の貴賤相集り、屍を城外に埋める。且つ神国の例に依りて、霊廟を御殿の後山に建て、高麗明神と崇む。郡中に凶有れば、則ち之を祈る也。云々。
高麗神社の祭神は、一族の統率者であった若光王であるが、この若光王について、『日本書紀』天智天皇五(六六六)年十月条に、
高麗、臣乙相奄〓等(おつそうあむらら)を遣して、調進(みつきたてまつ)る。
大使臣乙相奄〓・副使達相遁(だちそうどん)・二位玄武(げんむ)若光等。
とあり、さらに三八年後の大宝三(七〇三)年四月条(『続日本紀』)に、
乙未。従五位下高麗の若光に王の姓を賜う。
と記されるが、これらの人物が同一であるか定かではない。しかし、新たに設置される武蔵国高麗郡への統導者として、官位を授けられるほど中央政府において認められていた若光が派遣されたと、考えられなくもないであろう。
高麗神社の西南に位置する高台に、若光の守護仏という聖天を本尊とする聖天院(高麗山勝楽寺)があり、同じく若光の供養塔と伝えられる五重塔がその境内に建てられている。この寺は、聖雲(若光王の三子)が、天平勝宝三(七五一)年に、師の高句麗僧勝楽が入寂したおり開山したと言われている。
一方、新羅郡は、前項で既述の『続日本紀』天平宝字二(七五八)年八月条の、「始めて新羅郡を置く」と記されるこのときに、高麗郡と人間川とを隔てた東の地に設置された。志木・余戸の二郷からなる小郡で『和名抄』や『延喜式』には新座(にいくら)とあり、また『和名抄』の註記に「爾比久良」とされるように、古くは「ニイクラ」と称されたらしく、さらに中古には新倉と書いたようである。現在では、新座(にいざ)・志木・白子などの地名が使われている。
このほか、武蔵国における帰化人の居住として、播羅郡に上秦郡と下秦郡があり、賀美郡に長幡部の名が見られ、これらの郡には秦(はた)氏の存在が認められる。この秦氏は漢人系の帰化人で、五世紀の初め、楽浪(らくろう)・帯方(おびかた)の二郡が滅亡したさいに、弓月君が百数十県の人民を率いて渡来したと伝えられる代表的帰化氏族の一つである。彼らは養蚕や機織の技術をもって朝廷に仕えていたが、やがて一族の分派が東進し武蔵国へも移動してきたらしく、式内社の長幡部神社が鎮座することなどからも、秦氏一族の居住地としていたことがうかがわれる。同じく漢人系の帰化人に、浅草付近に住んでいたと言われる檜前(ひのくま)氏がいる。
武蔵国内の帰化人分布図
このようにして武蔵国に移住した帰化人たちは、古代における東国の開発に重要な役割をはたしていたのである。