以上のごとく、八世紀後半までの東国における帰化人は、その知識や技術を吸収した東国文化の発展とともに、ほぼ順調な歩みを続けていた。ところが、九世紀後半にいたり、『三代実録』にはつぎのような記事が記される。
十五日申子。新羅人二十人をして諸国に配置せしむ。清部・鳥昌・南巻・安長・全連の五人を武蔵国に(中略)遣す。(中略)彼の国人、貢綿を掠め取るの嫌疑に処す。須く重譴を加え以て後来を粛すべし。
貞観十二年九月十五日、新羅人五人を武蔵国に配置す。是に依りて国司言すらく、そのうちの二人逃亡し、在所知らずと。仍りて太政官符を左右京・五畿・七道諸国に下して、捜索せしむ。
前者は貞観一二(八七〇)年九月、後者は元慶三(八七九)年四月の記事であり、貢綿をかすめ取り、あるいは逃亡を企てる者が現われるに致ったことを示すものである。これにさきだつ弘仁一一(八二〇)年二月には、遠江・駿河の国の新羅人七〇〇人が大がかりな反乱を起こし、相模・武蔵など七国から軍が討伐に向かわされていることが『日本紀略』に記されている。
このような帰化人の行状は、しかし、西国防備のために防人として派遣され、後述する蝦夷征討のさいの徴兵、さらに重税も課せられて苦しむ東国の人びとの疲弊を示す様相の、一端をうかがわせるものなのであり、また、九世紀半ばの上総を中心とした俘因(ふしゅう)の乱(俘因とは特別保護民のこと)や、東山・東海の道筋に出没した〓馬(しゅうば)の党(〓馬とは雇馬で、中世の馬借にあたるもの)が起こる当時の社会状勢に起因していたと思われるのである。
東国の帰化人の歴史に、このような「貢綿掠取の嫌疑」や「逃亡」という不名誉な一面があったとしても、各地に分住し、日本人の生活にとけこんで、未開地の開発の原動力となって社会進展に重要な役割を演じた帰化人の活躍を、忘れてはならないであろう。
補註
一 『延喜式』によると、官営の牧には兵部省所管のものと左右馬寮所管のものとがあった。
二 このような製革技法は、大和国山辺郡に熟皮高麗という革工人がいたことや、製革および皮製品の製造に従事する工人が狛部あるいは狛戸とよばれていたことなどから、おもに高句麗から伝えられたのであろう。