二 古代における東国の概念

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 そもそもここでいう東国すなわち「あづまの国」とは、統一国家における中央大和政権の所在地を中心として、その東方に所在する地域という意味である。したがって、この大和国家の勢力が東方へ進出するにつれて、しだいに東国の範囲も縮小されながら東方へと移行し、そのためにこの範囲が、年代によって著しいズレを生じるのは当然のことであろう。
 第四世紀以前、すなわち大和朝廷が国家統一の基礎を確立した時代は、名張を越えると、つまり伊賀国から東は、すべて東国と考えられていたと思われる。ところが第五世紀になると、大和政権の政治的関心が東日本にも向けられるようになり、東方の開拓や遠征軍の派遣により、しだいに大和勢力が東国に浸透してきた。このころ、逢坂山や鈴鹿関から東を、そしてさらに、不破の関から東、東海地方以東を、東国とするようになった。第五世紀末には、東海地方から箱根・足柄の関を越して南関東の地域がいわゆる倭王武によって平定され、関東地方以北の地域が東国の概念となっていった。
 第六世紀から第七世紀になると、東北辺において大和朝廷の支配下にある所とそうでない所とが明らかになり、その境がはっきり区切られたことを『日本書紀』の崇峻紀二(五八八)年七月条が伝えている。
  二年の秋七月の壬辰(みづのえたつ)の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の国の境を観しむ。宍人臣鴈を東海道の使に遣して、東の方の海に浜(そ)える諸国の境を観しむ。阿部臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国の境を観しむ。
 北関東で勢威をふるっていた毛野国すらも大和朝廷の勢力下に編入されるに致り(註二)、このころ、関八州を東国とする考えかたのもとが定まったものと思われる。