三 毛人・蝦夷とアイヌ人

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 以上のことから、前述の倭王武の上表文に見られる東方の毛人の国とは、畿内より東方にあり、南関東までの範囲の国を示したものであろう。そして『日本書紀』の景行天皇二七年二月条に、
  武内宿禰、東国(あづまのくに)より還て奏して言(もう)さく、「東(あづま)の夷(ひな)の中に、日高見国(ひたかみのくに)有り。其の国の人、男女並(ならび)に椎結(かみをわ)け身を文(もどろ)けて、為人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是を総(す)べて蝦夷(えみし)と臼う。亦土地沃壌(またくにこ)えて広し。撃ちて取りつべし」とまうす。
とあるように、蝦夷とは東海地方より東北地方にわたる東国の住民のすべての総称であったことがわかり、したがってこの東方の住民としての蝦夷と、上表文中の毛人とは、同一の人びとを呼ぶ異称だったと考えてよいだろう。
 やがて第六世紀から第七世紀に入って、大和朝廷の東国経営が進み、その事情がいっそう明確に詳しく知られるようになると、毛人とは、蝦夷の一種として特に北関東の毛野国の住民をさす呼称となったものであろう。
 ところで、蝦夷は、他の異民族と違って、政治的に日本民族と分離していたという点だけでなく、容貌・骨格からいっさいの風俗慣習の点でも、日本民族とは異なるとしてしばしば記されている。前述の景行天皇二七年二月条にある「為人勇悍」もそれを意味し、また同じく景行天皇四〇年七月条に見られる詔のなかには、冬は竪穴、夏は地上の小屋に住み、季節により住居を変える慣習をもっていたと記されている。そしてこの慣習が、近世のアイヌ人の生活と近似しているという理由から、蝦夷とはアイヌ人のことであるとする説が論じられてきたのである。はたして蝦夷すなわちアイヌ人なのだろうか。