四 東人の祖先

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 「蝦夷」の字は古くから「エミシ」と訓まれているが、このほかに「カイ」「エゾ」などと訓むとする諸説があり、アイヌ人との関係を論じている。その代表的な説を以下に紹介すると、まず喜田貞吉博士は、「カイ」が本来の訓みかたであるとされ、つぎのような蝦夷アイヌ論を唱えられた(註三)。千島アイヌの「クシ」、樺太アイヌの「クイ」、越人の「コシ」、国樔の「クズ」、少名彦那命の「クシノカミ」の「クシ」、これらは皆、同一語の一転音であって、「カイ」もまた同じであり、その音に「蝦夷」の二字をあてたにすぎない。この「カイ」は、有史時代になっても奥羽地方で活躍した民族で、彼ら自身で自己の民族を「カイ」と呼んだので、これが民族名となった。後世において、彼らに接した津軽地方の日本人は、年長者に親しみや敬愛の情を表わす語として、「カイ」に敬語の「ナ」を付した「カイナ」と呼び、蝦夷自らもこの「カイナ」を用いたのであろう。やがてこの「カイナ」が転訛して「アイナ」となり、そして「アイヌ」となったのである。ともかく、蝦夷は「カイ」であり、石器時代の繩文土器使用者の延長が津軽の蝦夷で、津軽の蝦夷の延長が北海道アイヌであることから、蝦夷はアイヌであるとする、というのが喜田貞吉博士の説である。
 これに対し長谷部言人博士は、蝦夷非アイヌ説を唱えられた(註四)。その論旨は、多毛性をもって蝦夷がアイヌであることの証明にはならないし、風俗・宗教の面からも蝦夷はアイヌであると断じがたい、そして、エミシ・エビスという語は、烟(けむり)を立てることをイブス・クズスというのに酷似しており、烟の多く立っている所には必ず賊(えびす)がいるであろうということからエビス・エミシという種族名が生じたので、蝦夷に関する語はけっしてアイヌ語に関係のあるものではなく、日本語と関係があるものである、という以上の点にあった。
 別に金田一京助博士の説(註五)があり、それによれば、現在の人種名アイヌは近世ではアイノ、中世ではエゾとなり、さらに古くはエミシであったが、土人はもとよりアイヌと発音していたものを、日本人がアイノと誤り聞いたので、バチェロアー博士以後ようやくアイヌと呼び改められるようになったのである。この「アイヌ」の原義には、「人間」・「男子」・「種族名」の三義がある。時代的にはエミシ・エビス・エゾと三段階の変化があり、エミシがエビスに変化するとその意義も変化し、平安朝にはそれ以前の蝦夷・毛人を意味したエミシが拡張されて一般の蛮夷を総称するものとなった。そこで毛人の呼称には、平安朝の奥州の土俗に対する新知見に基づいて、「人」を意味するアイヌ語「アイヌ」と同義語の enju(enchiu)という語を原語として、新たにエゾの語が用いられた。この enju というアイヌ語は enchiu とも発音されているので、もし今日の emchiu のようなm音のものであったとすれば、そこからエミシ・エビスがでたのも自然な過程と考えられる。エムチュがエミチ・エミチェとならずエミシ・エミスとなったのは、原日本語では、外国の言語がとりいれられるとき、ほぼ原則としてタ行音はサ行音となることより証明される。このようにエミシ・エビス・エゾのいずれもがアイヌ語に由来するものであるから、そう呼ばれる異族はアイヌと深い関係がある種である、と考えられた。
 以上の諸説を考慮して推論すると、「毛人」というのは明らかに「エミシ」であって、のちには北関東の毛野国の住民をさす呼称となったものと考えられる。したがって、もし「エミシ」の語源がアイヌ語によるとしても、たんに東国の住民を意味する「エミシ」であり、「毛人」はアイヌ人ではない。「毛人」という呼称が生じたのは、古代において東国の住民が畿内日本人より多毛性であったという理由からにすぎないと考えられる。既述の倭王武の上表文に記された「毛人五十五国」も、したがって北関東地方までの国々を示すものであろう。
 やがて、第七世紀の初頭、大化以後になると、大和政権の東北進出が活発化し、支配地を北へと拡張するにつれて、蝦夷の語は「エゾ」として使用され、そう称される地域の範囲もずっと北の方へずれて使用されるようになったと考えられる。大化のクーデターによって政権を握った新政府は、その重要な政策として、東北蝦夷経営策を打ちだした。それは、過去一世紀間にわたる朝鮮半島経略の不成功のために失った領土や資源などを補充することと、班田収授の実施にさいして必要な墾田を未開の土地に求めることを意図するものであった。そのために大化二(六四六)年正月に、いわゆる大化改新の詔勅を発し、翌年から早くも東北開拓に乗りだしたのである。六四七年には新潟市沼垂町に渟足柵(ぬたりのき)を、さらに六四八年には同じく新潟県村上市に磐船(いわふね)柵を設けて、蝦夷経略の前進基地を設置し、これにより、日本海岸を通って出羽・秋田・津軽そして北海道にまで遠征軍が派遣されたのである。とりわけ、六六三年八月に白村江においてわが国の水軍が唐・新羅連合軍に完敗し半島の利権のいっさいを失うに致っては、いっそう蝦夷経略が必要とされ、東北開拓政策が推進された。そして大和の人びとの蝦夷に対する関心も高まり、その知見も深まっていった。このように東北経略が進むにつれて、「エミシ」から「エビス」へ、さらに「エゾ」へと呼称が固定していき、それにともない東北地方も北部の住民をさすようになったものと考えられ、やがて近世に至って北海道のアイヌ人の呼称となっていったのである。
 以上のように、上古においては、蝦夷をアイヌとみるかどうか、いちがいには決めがたい。異人種としてのアイヌをさす場合もあっただろうし、また日本人の東国の住民を意味する場合もあっただろうと考えられる。そして大化前代においては、蝦夷は日本の東方に住む人びとの汎称として、アイヌ人をも含めた日本人の呼称であった。しかし、大化後の第七世紀以降から鎌倉時代に至るまでは、蝦夷をエゾと訓み、この場合は明らかに東北地方に侵入していたアイヌ人のみをさすものとなった。そして、それ以降には、しだいに北海道以北のアイヌの呼称になったと判断されるのである。
 このように、古代の東国は蝦夷の住地であり、武蔵国の住民が蝦夷と称される人びとの範囲内に入れられたことがあったと考えられるが、しかしこの地は、皇室の直轄領が置かれるなど大和朝廷の勢力が波及していたので、少なくとも第五世紀以後は、移住してきた日本人を遠祖とする人びとが土着し居住していたのである。したがって、東人の祖先を考えるとき、有史時代にはすでにアイヌ人との混血の度合いは微弱だったのであり、むしろ東人にとって問題となるのは、防人として西海の防備に派遣され、ついで蝦夷経略上の基地として重要な役割を課せられ、兵員として動員されたことであった。