五 東国の疲弊

410 ~ 414 / 1551ページ
 中央大和政権の東北開拓が進み、蝦夷経営が浸透するにつれて、東国の役割は、いちだんと具体的に大きくなっていった。そのひとつは、高橋富雄氏の言われる(註六)「武装植民」として、東国の人びとがかりだされたことである。
 この武装植民とは、渟足柵や磐船柵へ柵戸(きのえ)として送りこまれた人びとのことで、城柵に囲まれた地域内で半農民半兵士的な生活をするが、本来は農民である屯田兵的な移住農民をいうのである。また『続日本紀』霊亀二(七一六)年九月乙末の条に、
  出羽の国を建てて、已(すで)に数年を経れるも、東民少稀にして、狄徒未(てきといま)だ馴れず。其の地膏腴(こうゆ)にして、田野広寛なり。随近の国民を請令して出羽国に遷(おく)り、狂狄を教喩して、兼て地利を保たしめんとす。
とあり(記事中の出羽国は七一二年に設置されたもの)、『続日本紀』天平九(七三七)年夏四月戊午の条にも、
  軍を発して賊地に入ることは、俘狄を教喩し城を築きて民を居かんがためなり。
とあることから、「教喩狂狄」もその役目としていたことがうかがわれる。
 このような柵戸(註七)の民の派遣は、正史の記事中にしばしば見られ、東日本の国々から送りこまれたことを明らかに記すものだけでも、『続日本紀』和銅七(七一四)年一〇月丙辰の条の、
  勅して尾張・上野・信濃・越後等の国の民二百戸を割て、出羽の柵戸に配す。
 霊亀元(七一五)年五月庚戌の条の、
  相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野の六国の富民千戸を移して、陸奥に配す。
 養老元(七一七)年二月丁酉の条の、
  信濃・上野・越前・越後の四国の百姓各一百戸を以て、出羽の柵戸に配す。
 同三(七一九)年七月丙申の条の、
  東海・東山・北陸三道の民二百戸を遷して、出羽の柵に配す。
などが認められるのである。したがって、これら以外の記事で、地域の限定されていない「諸国」から送りこまれたとされる柵戸の人びとも、東海・東山・北陸の東日本諸国、とりわけ東山・東海のいわゆる東国から配される傾向のあったことがわかるのである。そしてこのための東国の疲弊は、『続日本紀』養老五(七二一)年六月乙酉の条に、
  陸奥筑紫の辺塞の民、数煙塵に遇て、戎役に疚労す。加以(しかのみならず)父子死亡、室家離散す。
と記して表わされるように、かなりひどいものであった。
 ところが、このような柵戸の配置のみならず、蝦夷征討に必要な武器の準備や運送の負担までもが、同じように東国の人びとに負わされていたのである。
 和銅二(七〇九)年に兵士を徴発し武器を運送せしめたことに始まって、こののち、神亀元(七二四)年、天平九(七三七)年、天平宝字二(七五八)年、同三(七五九)年、宝亀六(七七五)年、同七(七七六)年、同八(七七七)年と、正史に見られる限りでも数多く、とりわけ宝亀一一(七八〇)年に陸奥国で起きた伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の反乱を契機として、この後、ひんぱんに東海・東山の諸国から兵糧が徴収されるようになった。ここにいたって、東国の人びとの疲弊いかばかりであったかが想像されるのであるが、現実に、東国と蝦夷経営との関係は、いっそう深刻に、切迫したものになっていくのである。
 すなわち、柴田徳氏が、「奈良後期から平安初期にかけて東国のみ特徴的に発生した『神火』の現象は、東国農民に対する征夷事業の収奪強化への闘いが背景。しかもこの闘いが、神火発生の原因にみられる在地豪族層間の反目=競合によって誘発される、国家権力への豪族層の抵抗と重なる可能性をもっていた」とされるように(註八)、東国農民と在地豪族の抵抗が〝反権力〟としてしだいに重なりあい、さらには俘因=特別保護民としての蝦夷と東国農民とが結びついていった。そしてこの東国独特の性格が、九世紀以降の東国に俘因の乱が横行する原因となり、ここにも律令制の動揺のきざしが、うかがい知れるのである。

坂東から陸奥・出羽への道
(高僑富雄氏による)

 補註
 一 長谷部言人博士『先史学研究』。参照
 二 この時期に毛野の国は大和朝廷に対して独立していたとする説と、むしろその権力下にあったとする説が、『日本書紀』安閑紀元(五三四)年条の記事をもとにして分かれている。前者を主張するのは石井良助氏(『大化改新と鎌倉幕府の成立』)・田辺幸雄氏(『万葉集東歌』)・井上光貞氏(「古代の東国」『万葉集大成』第五巻)などであり、また後者は志田諄一氏(「大化前代の毛野の独立性について」『茨城キリスト教大学紀要』二)・本位田菊士氏(「大化前代における皇親勢力」『日本歴史』第二六九号)らによるものである。本論では、安閑紀元年の記事より、毛野国の強力性を推定することはできるが、しかしそれは、東国という地域内でのみ通用するもので、大和朝廷に対しては従わねばならなかったと考える。
 三 喜田貞吉博士『日本民族史概説』参照。
 四 長谷部言人博士『先史学研究』参照。
 五 金田一京助博士『アイヌの研究』参照。
 六 高橋富雄氏「古代国家と辺境」『日本歴史』古代三参照。
 七 大化三(六四七)年に渟足柵、翌年には盤船柵を越国に造って「柵戸」を置いたと、『日本書紀』に記されている。『大言海』ではこれを、「古へ陸奥・出羽・越後ニ設ケタル柵ノ内ニ土着セシメラレシ民戸。即チ屯田兵ナリ」と説明している。また高橋富雄氏によると、この柵戸が蝦夷経営に主要な意味をもつのは、奈良時代に入ってからで、それも天平のころを境として、その性格が大きく変わっているとされる。すなわち、奈良朝初期(養老のころまで)の柵戸は、生活の安定した内民を戸単位にしたものであったが、その後期(天平宝字三年のころ)になると、犯罪人や浮浪民を徒刑的な目的で柵戸に編成した、とされるのである(前掲書および「柵戸におもむく人々」『古代の日本』七)。
 八 柴田徳氏「転換期としての平安初期東国の一考察」『史苑』二九-三参照。