一 律令制下の村落

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 わが国における初期の農業は、耕地の共同開墾や灌漑施設などに見られるように、播種・耕作・収穫は、すべて農民が一団となって、一定の耕地で共同の生産にあたっていたので、それまでの原始共同体という社会的な形態の変貌を必要とするまでには致らなかった。しかし、やがて西日本の先進地帯では、農耕生産性が向上するにつれて、余剰の富の蓄積が生じるようになり、このため、身分的な不平等性を示してきた。この様相は明らかに原始共同体の崩壊を意味するものであった。
 農業がこの段階からさらに発展すると、生産様式に合った労働力を必要とし、生産単位としての家が成立するようになった。共同体は耕作のために必要な人口構成をとらざるをえなくなり、血縁的な結合を崩して地縁的な連合体を作るに致った。
 このような原始共同体から古代共同体への移行は、第三世紀後半以後すでに見られ、いわゆる古墳文化期では、共同体の連合の上に古代国家が成立したのであり、氏姓社会と言われるように、血縁のつながりを打破した、氏を単位とする古代共同体へと発展した。この古墳時代およびそれ以降の竪穴住居址を見ると、規模の上で著しい大小の差があり、また、それぞれの住居址に竈(かまど)の設備が認められる点から、生活の単位がいっそう小さくなっていったことがうかがわれる。このような小単位では農業生産を充分に行なうことはできないので、それらの家がいくつか結合して統制された大家族を構成し、生産単位をなしていたと考えられる。この結合体の構成員には、血縁者のほかに寄口(きこう)・奴婢(ぬひ)などの非血縁者も含まれ、家父長的な家内奴婢制がとられていた。そして奴婢らの労働力を活用することによって、大規模な灌漑排水の設備を整え、耕地の拡大、農業生産の増加が進められたのである。
 このようにして、農業が発達するにともなってしだいに発展をとげてきた古代の農村は、路村や塊村状を呈して沖積地の自然堤防あるいは山麓に作られていったように、自然条件に支配されつつ形成された自然村落であった。しかし、第六世紀末の聖徳太子による摂政以来、急速に発達した律令国家組織のための社会改革は、この古代村落にも影響を与えずにはおかなかった。とりわけ大化改新において公地公民制が断行され、それを実現させるための基本的条件として班田収授制が実施されるにあたって、新たに条里制が採用されることとなり、ここに初めて行政的な村落の形態が、前代の自然村落の形態を基盤として整えられたのである。
 班田制により、六歳以上の男に二段、女には一段一二〇歩、奴婢には男女それぞれの三分の一が口分田(くでんぶん)として均分され、田租として一段につき二束二把を納めなければならなくなった。このため政府は、全国の耕地整理を行なって土地の分配を明確にする必要から、耕地の地割の制度である条里制をとりいれたのであり、大和などの畿内はもちろん北九州・四国・中国・東海・信越・関東にわたる諸地域の大平野においてこの条里制が実施された痕跡が認められている。
 地割は、令の大尺方五尺を一歩とし、三六〇歩を一段、一〇段を一町とした。すなわち一町は縦横六〇歩の正方形の区画をなすもので、これを坪と呼び、さらに縦横六坪からなる正方形の区画を里あるいは坊と呼び、この里のなかの三六坪それぞれに番号をつけて、「一の坪」から「三六の坪」までの小単位に分けて呼んだ。そして里や坪の境界は、畔・溝・道路などで区切り、一里三六坪のなかの一坪を使って集落が営まれていた。
 集落を編成する戸数は、『日本書紀』によれば、大化改新の詔によって五〇戸をもって一里とすると定められているが、『播磨(はりま)風土記』によると、舒明天皇の庚寅(六三〇)年に三〇戸をもって一里とした村落編成が見え、だいたい三〇戸前後であった当時の自然村落の構成を基盤として、律令制では五〇戸一里の編成を企てたものであろうと思われる。そして、このように一里五〇戸に編成された農民は、「編戸の民」あるいは「調庸の民」と一般に呼ばれ、里長-郡司-国司の中央集権的支配機構を通して掌握されていたのである。
 やがて、この里制が定められてからおよそ七〇年を経た霊亀元(七一五)年になると、それまでの里を郷と改め、郷の下に新しい里をおく、いわゆる郷里制が採用された。しかしこの里制は、唐の制度として「百戸を里と為し、五里を郷と為す」という行政単位を模倣したものにすぎず、日本では、古い共同体的結合をもとにしてできた自然村落の三〇戸から五〇戸をまとめて里としたものを、用字の上だけで郷と改め、その下部組織として新しく里を編成したものにすぎなかった。この郷里制によって記載された戸籍として、『正倉院文書』に含まれている養老五(七二一)年の下総国葛飾郡大嶋郷の資料があり、これを見ると、大嶋郷は、甲和里・仲村里・嶋俣里の三里を所属せしめていた。そして甲和里は戸数四四、仲村里は戸数四四、嶋俣里は戸数四二と記載され、したがって三里の戸数は合計一三〇戸となるはずであるが、戸籍の最後には、郷の戸数は三里を合してすべて五〇戸と明記されている。これはどういうわけであるかというと、郷里制における郷の五〇戸というのは、若干の家の結合体としての郷戸の数であり、里の四四戸などとある戸は、その結合された家をさしていわれた房戸の数を表わすものなのである。すなわち、郷の構成単位をなした郷戸を細分した里の単位として、房戸が用いられていたのであり、一郷戸は三ないし二の房戸を結合して編成されたのである。しかしながら、この房戸は、それ自体だけでは決して農業生産の単位となりがたかったので、郷里制の実施後わずか二十余年で、里は全面的に廃止され、郷制のみ存続することとなった。
 須恵(すえ)器あるいは土師(はじ)器を出土する住居趾群の発掘によっても、当時の村落の実態を知ることかできる。たとえば、第七世紀ごろのものと推定される東京都板橋区志村小豆沢遺跡では、一屋の竪穴住居の内部をいくつかの部屋で仕切ったほど大きなものがある一方、二人以上は住めないほどの小さなものがあり、はなはだしい大小の差が住居に認められるが、そのいずれもが共通して屋内に竈(かまど)の設備をもっている。このことから、それらすべての竪穴住居が、大小にかかわらず生活の一単位をなしていたと考えられ、郷戸・房戸の関係をうかがわせるものである。同様な状態は、東京都杉並区矢倉台遺跡や長野県東筑摩郡宗賀村平出遺跡などにおいても見られるが、これらの遺跡について、集落として計画的に組織された形態がまったく見当たらないことは、条里制下の村落を考えるうえで重要な点である。
 このように、いちどは確立した公地公民制や班田制ではあったが、その前代に存在した豪族の私的所有地を、根本的に一掃するには致らず、ほどなく崩壊のきざしを見せはじめることになるのである。