大化改新における前述のような土地制度は、土地人民の私有に基礎づけられた豪族の支配権と、ある程度妥協することによって律令体制をしこうとしたために、食封(じきふ)の制を残したり、位田・職分田・功田・賜田・寺田・神田などの特殊田を認めたりして、むしろ貴族・豪族の勢力蓄積を助長させる結果となった。これに加えて、帰化人への班田給付や人口増加により口分田が不足しはじめ、班田制を施行するにも支障が起こるようになった。このため、政府は自ら公地公民制に矛盾するような、養老七(七二三)年の三世一身法やさらに天平一五(七四三)年の墾田永代私有法など、土地私有制を復活させかねない法を発し、そのような手段によってまで、開墾を奨励して口分田を増加させようとした。ところがこれは、庶民に対して一〇町以内、貴族に対してはその位に応じて一〇〇町から五〇〇町と私有地の規模に制限を付したとはいえ、貴族や大寺社などの特権階級層に対して、その広大な土地私有を容認したことにほかならなかった。
平安時代になるとさらに、長期にわたって同一人が口分田を保有する現象や、公田私有の様相が一般化していった。そこで政府は、弘仁一四(八二三)年に公営田方針を採用し、さらに元慶三(八七九)年には四〇〇〇町歩もの官田を設けるなどの策を企てたが、土地国有制を建て直すにはとうてい致らなかった。貴族・社寺や地方豪族が、班田系荘園や墾田系荘園などの広大な土地を私有化していくのを、くいとめることはできなかったのである。
朝廷は、このような荘園の急激な発達に対し、一〇世紀に入ってから、再度にわたり荘園整理令を発した。延喜二(九〇二)年に出された最初の整理令をみると、
(一)勅旨田を延喜以後は凡て廃止する。
(二)諸国百姓の寄進行為を禁ず。
(三)諸院諸官貴族(五位以上)の有力者が、閑地田宅を占め、新たに荘家を立てることを禁ず。但し元来相伝の荘家として、正式の認可証を得ているもので、国務を妨げないものは、この限りではない。
という、そうとう厳しい内容の禁令であった。しかし、こうした整理令が出されても、国司階級の貴族である受領(ずりょう)層にいくらか支持されるのみで、荘園の寄進を受ける上流貴族層には効果がなかった。延喜以後も荘園が新立され、また、小規模な荘園領主や、国司に対抗しえない地方の開発領主層は、権門勢家や寺社に対して、自分の所有する荘園の領家職を寄進し、自らは荘官となって実質的な権益を守るという形をとったため、寄進行為もますます盛んに行なわれるようになった。さらに、九世紀後半に見られる官省符荘のように、不輸・不入権を得れば国家権力の届かない完全な私有地となるので、権門勢家や寺社へ寄進することにより、その特権を獲得しようとしたのである。
ここに致り、ついに公地公民制は崩れ、私地私民制すなわち荘園制へと移行していった。