武蔵国は、早くから皇室の直轄領として開拓されたため、比較的古くから律令国家の支配力が強力に及んでいた。したがって、いわゆる反律令的大土地私有形態としての荘園制が普及する過程においても、ここでは、皇室御領としての荘園か、あるいは武蔵国司に任ぜられた者やその子孫たちによって営まれた私営田が、主要な荘園と目されるものの主体をなしていたのである。
そのような武蔵国の荘園のうち、古いものとしては、淳和天皇の天長六(八二九)年一二月に、武蔵国の空閑地二五〇町歩を西院の勅旨田とし、さらに翌年の二月にも、武蔵国の空閑地二二〇町歩が勅旨田として開墾されていることが、『類聚国史』に記されている。この西院とは、淳和天皇が譲位されたあとに住まわれた、京都四条の御所のことであるから、後院(天皇があらかじめ在位中に、譲位後の座所として設けた隠居所)であることが知られ、その経費に充当させるべく設けられた御院領である。また、『続日本後紀』に、仁明天皇の承和元(八三四)年二月、冷泉院のために奉じられた武蔵国播羅郡荒廃田一二三町、同じく承和八(八四一)年二月、嵯峨院のために奉じられた武蔵国田五〇七町とあるのも、同様の性格の荘園であり、これらから、武蔵国における初期荘園の性格がどのようなものであったかを推察することができよう。
武蔵国内における荘園を見ると、
伊勢二宮領七松御厨
伊勢二宮領大河土御厨
伊勢内宮領橘樹郡榛谷御厨
伊勢内宮領豊嶋郡飯倉御厨
新日枝社領入間郡河越荘
西大寺領入間郡榛原荘
西大寺領高麗郡安堵郷栗生村
貞観寺領高麗郡山本荘
貞観寺領入間郡広瀬荘
貞観寺領多磨郡弓削荘
八条院領埼玉郡太田荘
八条院領橘樹郡賀勢荘
摂関家領橘樹郡稲氏本荘
摂関家領橘樹郡船木田本荘
摂関家領橘樹郡船木田新荘
などのように、武蔵国の荘園は、初期においてはもっぱら皇室領・神宮領として開発され、やがて中央の権門勢家・寺社を本所とする荘園が発達したと推測される。