第二節において述べたような土地制度の動揺や、また、それまで首長として古代共同体を統率してきた家父長およびその子弟らの下級官僚化により、村落内部の人びとの生活が、その古い共同体的結合関係では保障されえなくなった。そのため、逃亡する農民が続出し、手工業者は村落の枠から脱けだして政府直属の工人になろうとした。このような動揺は、律令制支配の権力が及びやすい、畿内村落のような先進地域では顕著にあらわれ、古代共同体的関係の存続は、もはや困難になってきた。また、辺境の村落では、相対的に畿内の村落よりも家父長制が未発達であったから、共同体的関係はわりあい遅くまで存続していたと考えられる。しかし、すでに土師器をともなう集落趾に見られたように、しだいに家父長制へと移行する傾向が認められ、やがて、在地の豪族や、下級貴族の地方官となって土着した者などが、地方の動乱や中央での律令権力の衰微に乗じて、墾田を開拓して私営田を獲得し、新たに有力な家父長層を築いていったのである。そして、これらの新しい勢力が、地方における荘園経営の中心勢力となって、平安中期以降、在地の地主としての名主・田堵(たと)(ともに名田の保有者で、荘園領主に対して請作関係にある者)となり、やがて武士階級を形成する端緒の役割をなすに致るのである。