武蔵国衙と国分寺が多磨郡内に置かれ、また新羅の帰化人が移植されて高麗郡・新羅郡が設置されると、これまで荒漠とした未開の原野だった南武蔵の地域は、急速に発展していった。その結果、東海道は、これまでの相模国より走水海を渡って上総・下総・常陸へ向かう海路がしだいにすたれ、それよりも便利で近道でもある、相模からまず南武蔵に入り、さらに東武蔵を通って、下総方面へ向かう陸路が発達した。それは、相模国大住郡の国府から、箕輪(伊勢原あるいは比々多村)を経て、夷参(座間)または浜田(高座あるいは厚木)から、店屋(町田市本町田)に入り、ここから小高(小田中)・大井(大井)を経るか、あるいは武蔵国府(府中)・乗瀦(あまぬま)(註一)を経て豊島(註二)に至り、井上(墨田区寺島)・茜津(松戸)・於賦(富勢)を通って、常陸の榛谷(若柴・佐貫)から石岡の常陸国府に至る道であった。
一方、武蔵国はもともと東山道に加えられており、毛野国の伊勢崎から武蔵国府へ出て、乗瀦・豊島の二駅を経て下総に至る道があった。そのため下総国の井上・浮島・河曲の三駅と、武蔵国の乗瀦・豊島の二駅は、東山道と東海道との二道に属することになり、往来がはげしくなるばかりであった。『続日本紀』には、神護景雲二(七六八)年三月、東海道巡察使を命じられた紀広名の奏上文には、武蔵-下総間の交通の頻繁なようすが記されているが、それによると、東海道・東山道の二道をうけもっている井上・浮島・河曲・乗瀦・豊島の五駅は、その使命が繁多であってたいへんだから、中路に准じて駅馬一〇疋を配置するように進言している。そこで、『続日本紀』宝亀二(七七一)年一〇月条に、
太政官奏すらく。武蔵国は山道に属せりと雖も、兼て海道を承り公使繁多にして〓供堪え難し。其東山の駅路は、上野国新田駅より、下野国足利駅に達す。此れ便道なり。而るに枉(まが)りて上野国邑楽郡より、五駅を経て、武蔵国に到り、事畢って去る日、又同道を取りて、下野国へ向う。今東海道は、相模国夷参駅より、下総国に達する。其間四駅にして、往還の便近し。而るに此を去り彼に就くこと損害極めて多し。臣等商量するに、東山道を改めて、東海道に属せば、公私所を得て、人馬息することあらんと。奏可す。
とあるように、太政官によって武蔵国の東海道転属が奏進されるところとなった。武蔵国はこのときより東海道に所属することになったのである。