一 平安時代の遺跡と交通

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 昭島市域の集落は繩文時代中期以来主として拝島段丘縁辺に営まれてきた。竜津寺東・大日堂・円福寺裏・階生園と連続している土師器・須恵器散布地は代表的なもので、多摩川を眼下に望む段丘上に位置する平安時代遺跡も多い。拝島段丘は中神町の熊野神社附近で終り、そこから東方は青柳段丘の縁辺が多摩川氾濫原に接し、段丘には、広福寺台・常楽院西遺跡が占地している。青柳段丘の遺跡は林ノ上遺跡南に接する林遺跡もそうで、土器散布は疎密であるが範囲は拝島段丘にまで及ぶ。
 以上の段丘上の遺跡の外に、昭和五二年五月になって、中神町字東耕地において自然堤防上に平安時代遺跡が発見された。このため、昭島市域の平安時代の集落は七地域に分けて考えることができる。第一地域は林ノ上遺跡の南方に認められる林遺跡、第二地域は第三地域と連続している集落の可能性もあるが東西にのびすぎるので、竜津寺東と大日堂を含めて第二地域、第三地域は円福寺裏・偕生園の拝島段丘縁辺、第四地域は昭和五一年七月~八月に発掘調査の行なわれた経塚下遺跡を中心とする宮沢町南部、第五地域は玉川小学校から広福寺台にかけての一帯、第六地域は郷地町の常楽院(立川市)西遺跡で、立川市に一部かかった地域、さらに新発見の東耕地遺跡で、広福寺台遺跡の位置する段丘下西の自然堤防一帯を第七地域の集落として把えられる。
 第一地域の集落から第七地域の集落まで、規模の大小の違いはあろうが、ほぼ平安時代に営まれたものと見てよい。これら集落の最短距離を結んでみると、〝鎌倉街道〟と一部でいわれている拝島段丘の縁辺にそった小路にかかることが分る。段丘縁辺の小路は繩文時代の道であったともいえよう。この道は多摩川沿いに国府にまで達するものではなかったかと思われる。東耕地遺跡は道からはずれた位置にある。この遺跡が集落であったかどうか、今後の広範囲発掘調査の結果によらなければならないであろうが、ここでは集落址として把えようと思う。

昭島市域の平安時代集落と古代道路(推定)